字 公衡 · 不詳 ~ 240年 · 益州巴西郡閬中県 · 劉璋配下
主君への尽きぬ忠節と優れた見識を備えた悲運の策士
出典 · 『三国志』蜀書 黄権伝と裴松之注の徐衆の評 · 『漢魏春秋』 · 『蜀記』 · 劉璋伝 · 先主伝 · 法正伝 · 龐統伝 · 楊戯伝の「季漢輔臣賛」 · 魏書 文帝紀と裴松之注の『魏書』 · 三少帝紀 · 呉書 陸遜伝 · 『華陽国志』巴志 · 公孫述劉二牧志 · 劉先主志 · 劉後主志
黄権は字を公衡といい、巴西郡閬中の人です。若くして郡の役人となり、益州牧の劉璋が彼を召して主簿としました。『華陽国志』巴志は、巴西が生んだ人物を挙げる中で、彼を状況に応じて臨機応変にふるまえる人として挙げています。
建安16年(211)、別駕の張松が劉備を迎え入れて漢中の張魯を討たせようと言うと、黄権は「左将軍は勇名がありますから、招き入れて部下として遇すればその心を満たせず、賓客の礼で遇すれば一国に二君は並び立ちません。客が泰山のように安泰なら、主は卵を積み重ねたように危うくなります。ただ境を閉ざして黄河が澄むのをお待ちください」と諫めました。劉璋は聞き入れずに使者を遣わして劉備を迎え、黄権を広漢県長に出しました。劉璋伝は、そのとき従事の王累が自ら州の城門に逆さ吊りになって諫めたが、劉璋は一つも受け入れなかったと記しています。
のちに劉備が劉璋を攻め、将たちが郡県を分担して落とすと、各地は先を争って帰服しましたが、黄権は城を閉ざして固く守り、建安19年(214)に劉璋が降ってからようやく劉備のもとへ行って降伏しました。劉備は彼を偏将軍としました。裴松之注に載る徐衆の評は、主君に忠誠をもって諫め、城を閉ざして守ったことは君に仕える礼にかなっているとしながら、偏将軍ではその節義を顕彰するには軽すぎると述べています。
建安20年(215)に曹操が張魯を破り、張魯が巴中へ逃れると、黄権は「漢中を失えば三巴は振るわなくなります。これは蜀の手足を切り落とすことです」と言いました。劉備は彼を護軍として将たちを率いさせ張魯を迎えに行かせましたが、張魯はすでに南鄭へ戻って北の曹操に降伏した後でした。『華陽国志』は、このとき黄権が曹操の立てた三巴の太守杜濩 · 朴胡 · 袁約らを破ったと記しています。黄権伝は、のちに杜濩と朴胡を破り、夏侯淵を殺して漢中を得たのはすべて黄権の本来の計略であったと記していますが、法正伝は、建安22年(217)に漢中を攻める計略を出したのも、定軍山で攻める時機を告げたのも法正だと記しています。
建安24年(219)に劉備が漢中王となっても益州牧を兼ねると、黄権は治中従事となりました。劉備が皇帝となって東の呉を討とうとすると、黄権は「呉の人は戦いに猛々しく、我が水軍は流れに沿って下るので、進むのはたやすくても退くのは難しいのです。臣が先頭に立って敵に当たりますから、陛下は後方に陣を構えてください」と諫めました。『華陽国志』はこの諫言を章武2年(222)2月のこととしています。劉備は聞き入れず、彼を鎮北将軍として江北の軍を率いて魏の軍を防がせ、自らは江南にいました。先主伝は、彼が江北の諸軍を率いて夷陵の道で呉軍と対峙したと記しています。
呉の将陸議(陸遜)が流れに乗って下り包囲を断ち切ると、江南の軍は大いに崩れ、劉備は退却しました。道を断たれて帰れなくなった黄権は、率いていた兵を連れて魏に降伏し、龐統の弟の龐林もこのとき彼に従って魏へ入りました。担当の官が法に従って黄権の妻子を捕らえるよう上奏すると、劉備は「私が黄権を裏切ったのであって、黄権が私を裏切ったのではない」と言って、彼らを以前どおりに遇しました。裴松之は、偽りの言葉を信じて将軍李陵の一族を滅ぼした漢の武帝と比べ、法官の請いを退けて黄権の一族を寛大に扱った劉備とは得失がはるかにかけ離れていると述べました。
魏の文帝紀は彼の降伏をその年の8月に記し、裴松之が引く『魏書』は、黄権と南郡太守の史郃ら318人が荊州刺史に蜀で受けた印綬と旗を差し出し、曹丕が宴を開いて彼らを迎えたと伝えています。曹丕が「そなたは逆賊を捨てて順に従った。陳平と韓信にならおうというのか」と問うと、黄権は「臣は劉主に過分の待遇を受けたので呉に降ることはできず、蜀へ帰る道もなかったので命を預けたまでです。敗軍の将は死を免れただけでも幸いなのに、どうして古人を慕うことなどできましょう」と答えました。曹丕はその言葉を気に入って彼を鎮南将軍とし、育陽侯に封じ、侍中を加えて車に同乗させました。
蜀から降ってきた者が、劉備が黄権の妻子を殺したと言いましたが、黄権は偽りだと知って喪に服さず、のちに調べるとやはりそのとおりでした。裴松之が引く『漢魏春秋』は、曹丕が喪に服するよう命じると、黄権は劉備 · 諸葛亮とは誠意で互いに信じ合う間柄なので彼らは自分の本心を知っていると言い、続報を待ちたいと答えたと伝えています。黄初4年(223)に劉備の死の知らせが届くと、魏の臣下は皆祝賀しましたが、黄権だけは祝いませんでした。曹丕は彼の器量を見抜いて驚かせてみようと人を遣わして呼び出し、着く前に催促の使者が相次いで馬が道で行き交うほどだったので、属官たちは皆肝をつぶしましたが、黄権は立ち居振る舞いも顔色も平然としていました。
のちに彼は益州刺史を兼ね、河南に移り住みました。大将軍の司馬懿は彼を深く認めて「蜀にはそなたのような者が何人いるのか」と問い、黄権は笑って「明公がこれほど重んじてくださるとは思いもよりませんでした」と答えました。司馬懿は諸葛亮に送った手紙に「黄公衡は快活な男で、座っても立ってもあなたを称え、口から離さない」と書きました。景初3年(239)に車騎将軍 · 儀同三司に昇り、翌年の正始元年(240)4月に亡くなり、諡は景侯です。
魏で跡を継いだ息子の黄邕は子がなく、家は絶えました。蜀に残った息子の黄崇は尚書郎となり、景耀6年(263)に衛将軍の諸葛瞻に従って鄧艾を防ぎに出陣しました。涪県で諸葛瞻がためらうと、黄崇は急いで険要の地を押さえて敵を平地に入れないようにすべきだと重ねて勧め、涙まで流しましたが受け入れられず、綿竹で兵を叱咤して必死を期して戦い、陣頭で死にました。楊戯の「季漢輔臣賛」は彼を思慮が敏く計略に方策があったと称え、東の一隅を任されながら終わりが不吉で遠い地をさまようことになったのを悲しみました。陳寿は「黄権は度量が広く高雅で、思慮が深かった」と評しました。
黃權弘雅思量孤負黃權,權不負孤也『三国演義』 第60回 · 第62回 · 第64~65回 · 第80~85回
演義で黄権は第60回に初めて登場します。張松が劉璋に荊州の劉備を招き入れて曹操と張魯を防ごうと言うと、一人が汗を流しながら駆け込み、張松の言葉を聞けば四十一州が他人のものになると叫ぶので、演義は彼を劉璋の主簿黄権と紹介します。彼は、劉備を部下として扱えば身を低くするだろうか、客として扱えば一国に二君は置けないと言って、まず張松を斬るよう求め、境を閉ざして時が澄むのを待とうと言います。劉璋が自ら涪城へ出て劉備を迎えようとすると、黄権は再び頭を打ちつけて血を流しながら諫め、近寄って劉璋の衣の裾を口にくわえて離さず、劉璋が衣を振り払って立ち上がった拍子に前歯が二本抜けます。演義は続けて、城門に逆さ吊りになって諫め、落ちて死ぬ王累を描き、前歯を失いながらも結局劉備に降伏した黄権の節義が王累に及ぶだろうかという詩を添えます。
第62回で黄権は、劉備に兵と兵糧を与えないよう再び懸命に諫め、張松が死んだ後は関所ごとに兵を増やして荊州の者を一人も入れないようにしようと言い、劉備が涪水関を奪うと雒城に兵を置いて要所をふさごうと言います。第64回では劉璋の使者として漢中へ行き、張魯の謀士楊松に二十州を割譲すると言って救援を取りつけ、第65回で間道から戻ります。成都が包囲されると、降伏を勧める譙周を劉巴とともに斬ろうとし、劉璋が降伏した後は劉巴とともに門を閉ざして出てきません。怒った将たちが彼らを殺そうとすると、劉備は二人を害する者は三族を滅ぼすと言って自ら門を訪ねて呼び出し、黄権を右将軍とします。
第80回で黄権は光禄卿として劉備に帝位を勧める臣下たちの中に立ち、第81回で劉備が呉を討つとき程畿とともに参謀となります。第82回では呉の使者諸葛瑾に会うよう勧め、第83回で劉備が八つの道から進むとき水路を受け持ちます。第84回で黄権は、水軍が川に沿って下れば進むのはたやすくても退くのは難しいので、自分が先頭に立ち陛下は後方におられるよう諫めますが、劉備は呉の賊は肝をつぶしていると言って聞き入れず、彼に江北の軍を任せて魏を防がせます。魏の間者は、黄権が江北で毎日百里余りずつ巡回に出ているが意図がわからないと曹丕に知らせます。
第85回で劉備が大敗した後、近臣が魏に降った黄権の家族を罰しようと言うと、劉備は呉軍に道を断たれて帰る道がなくやむを得なかったのだから、私が黄権を裏切ったのだと言って、かえって禄米を下して家族を養います。曹丕が陳平と韓信にならおうというのかと問うと、黄権は泣きながら、呉に降ることはできず蜀へ帰る道もないので来たのだ、敗軍の将が死を免れれば幸いだと答えます。曹丕が鎮南将軍を授けると黄権は固く辞退し、蜀の君主が家族を皆殺しにしたという話が伝わると、互いに誠意で信じ合う間柄だからそんなはずはないと言います。演義はその終わりに、呉には降れないと言って曹氏の国に降ったのだから、一度の死を惜しんだ黄権を紫陽(朱熹)の筆は軽々しく許しはしないという詩を添えます。演義で黄権が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
子 黄邕 · 黄崇
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
蜀の黄公衡だ。
まず見極めてから語る男だ。
軽はずみな答えは差し上げぬ。
…帰る道が断たれたか。
わが意に反して流れてゆく。
前を見て歩く者は転ばぬ。
…主公に合わせる顔がない。
忠節は報われるものだ。
…帰る道がまた塞がった。
…帰る道はついになかった。