辛毗

字 佐治 · 不詳 ~ 不詳 (234年以後) · 豫州潁川郡陽翟県 · 曹操配下

辛毗の肖像

曹丕の裾にすがり、五丈原で司馬懿を押しとどめた硬骨の臣

能力値

統率38武力25知力79政治79魅力76

カード

攻撃力 2体力 2コスト 2価値 6職分 軍師
離間 コスト 2
敵2体は次の局面行動できない · 2体とも体力−1

正史

出典 · 『三国志』魏書 辛毗伝と裴松之注の『英雄記』 · 『魏略』 · 『世語』 · 袁紹伝と裴松之注の『先賢行状』 · 武帝紀 · 荀攸伝 · 趙儼伝 · 劉放伝 · 明帝紀裴松之注の『魏氏春秋』 · 蜀書 諸葛亮伝裴松之注の『漢晋春秋』 · 『晋書』宣帝紀

辛毗は字を佐治といい、潁川郡陽翟県の人です。兄の辛評に従って袁紹に仕え、曹操が司空となって彼を招きましたが、応じることができませんでした。『三国志』趙儼伝は、同郡の辛毗 · 陳群 · 杜襲 · 趙儼がそろって名を知られ、「辛 · 陳 · 杜 · 趙」と呼ばれたと記しています。

袁紹の死後、二人の息子袁譚と袁尚が冀州をめぐって争いました。建安8年(203)、袁尚が平原に退いた兄の袁譚を激しく攻めると、袁譚は辛毗を曹操のもとへ遣わして和睦と救援を求めました。裴松之注に引く『英雄記』によれば、曹操を呼び込んで袁尚を討たせようという策は郭図が出したもので、袁譚が誰を遣わすべきか尋ねると、郭図は「辛佐治がよろしい」と答えました。劉表を討とうと西平に来ていた曹操は初め大いに喜びましたが、数日後、先に荊州を平定し、袁氏兄弟は互いに疲弊するにまかせようと考えを改めました。酒宴の席で曹操の顔色が変わったのに気づいた辛毗がこれを郭嘉に告げ、郭嘉が言上すると、曹操は袁譚を信用できるかどうかを尋ねました。辛毗は、信か詐かを問わず情勢だけを見るべきだと言い、兄弟が争って国が二つに割れ、旱魃と飢饉が重なっているとして「天が袁尚を公に与えているのに、それを取らずに荊州を討とうとなさる」と述べました。さらに四方の敵のうち河北より大きなものはなく、河北が平定されれば天下が震えるだろうと言うと、曹操は「よかろう」と言って袁譚との和平を許し、黎陽へ軍を移しました。

翌年(204)、曹操は鄴を攻め落とし、上表して辛毗を議郎としました。『三国志』袁紹伝の裴松之注に引く『先賢行状』によれば、袁譚が去るとき辛毗と郭図の家族は脱け出せましたが、辛評の家族だけは鄴の獄に捕らえられていました。城門が開いた日、審配は辛氏と郭氏が冀州を滅ぼしたのだと怒り、人を遣わして辛評の家族を殺させました。辛毗が馬を駆って獄に着いたときには、すでに手遅れでした。その日、捕らえられて引き出された審配の頭を辛毗らが馬の鞭で打ち、「下郎め、お前は今日こそ本当に死ぬのだ」と罵りました。曹操は審配を生かそうとしましたが、辛毗らが泣き叫んでやまなかったため、ついに彼を処刑しました。

その後、曹操が都護の曹洪を遣わして下弁を平定させたとき、辛毗は曹休とともにその軍に参与しました。曹操は、昔、高祖は財貨と女色を好んだが張良と陳平がその過ちを正したと言い、いま佐治と文烈の責任は軽くないと諭しました。帰還すると丞相長史となりました。裴松之注に引く『世語』が伝える夏侯湛の文によれば、曹丕は太子となると辛毗の首に抱きつき、「辛君、わたしがどれほど嬉しいか分かるか」と喜びました。

文帝が即位すると(220)侍中となり、関内侯の爵位を受けました。文帝が冀州の士家(代々兵役を負う家)10万戸を河南へ移そうとしたとき、蝗害が続いて民が飢えていた時期であったため、多くの役人が反対しましたが、帝の意志は固いものでした。辛毗が群臣とともに謁見を求めると、文帝は顔色を険しくして迎え、皆が何も言えなくなりました。辛毗がその事は誤りだと言うと、文帝は「卿とは議論しない」と言いました。辛毗は、臣を側に置いて議論の官に就けておきながら、なぜ議論しないのかと言い、自分の言葉は私心からではなく社稷のためだと述べました。文帝が答えずに奥へ入ると、辛毗は追いすがってその裾をつかみました。文帝は衣を振り払って入りましたが、しばらくして出てきて「佐治よ、卿はなぜこうも激しくわたしを引き止めるのか」と言いました。辛毗が、いま移せば民心を失い、食べさせるものもないと言うと、文帝はその半分だけを移しました。

上軍大将軍曹真が江陵の朱然を討ったときには軍師を務め、帰還して広平亭侯に封じられました。文帝が大軍を起こして呉を討とうとすると、辛毗は、天下が安定したばかりで土地は広く民は少ないのだから、范蠡のように民を養い、趙充国のように屯田して、十年待ってから用いるべきだと諫めました。文帝が「卿の考えどおりなら、敵を子孫に残せというのか」と言うと、辛毗は、周の文王が紂王を武王に残したのは時を知っていたからだと答えました。文帝は結局呉を討ちましたが、長江まで来て引き返しました。

明帝が即位すると(226)潁郷侯に進み、食邑300戸を受けました。そのころ中書監の劉放と中書令の孫資が政務を握り、大臣たちはみな彼らと交わりましたが、辛毗は往来しませんでした。息子の辛敞が少し意を曲げるよう勧めると、辛毗は、彼らと不仲であっても自分が三公になれないだけのことだと言い、「大丈夫が三公になるために高い節操を損なえようか」と言いました。畢軌が上表して辛毗を尚書僕射に用いるよう求めましたが、劉放と孫資が「辛毗はまことに明らかで実直ですが、気性が強く独断的です」と奏上したため用いられず、彼は衛尉に転出しました。明帝が宮殿を盛んに造営して民が労役に苦しむと、辛毗は諸葛亮と孫権が軍備を整えているのに穀物の収穫もままならないと上書しました。明帝が北芒山を削ってその上に楼台を建てようとしたときには、天地の理に逆らい、民が労役に耐えられないと諫めて取りやめさせました。

青龍2年(234)、諸葛亮が渭水の南に出てきました。それより先、大将軍司馬懿は何度も出戦を願いましたが、明帝は最後まで許しませんでした。この年、これ以上抑えきれなくなることを恐れ、辛毗を大将軍軍師とし、節を授けて送り出しました。全軍は粛然として辛毗の指揮に従い、誰も逆らいませんでした。裴松之注に引く『魏略』は、司馬懿が何度も進撃しようとしたが辛毗が抑えて許さなかったと記し、『魏氏春秋』は、諸葛亮が女物の頭巾を送って司馬懿を怒らせ、司馬懿が出戦しようとしたところ、辛毗が節を手に詔を奉じてやめさせたと伝えます。諸葛亮伝の注に引く『漢晋春秋』では、姜維が、辛佐治が節を持って来たからには敵はもう出てこないだろうと言うと、諸葛亮は、司馬懿にはもともと戦う気がなく、あえて出戦を願ったのは配下に武威を示すためだと言いました。諸葛亮が死ぬと辛毗は再び衛尉に戻り、没後、粛侯と諡されました。没年は史書にありません。息子の辛敞が跡を継ぎ、咸熙年間に河内太守となりました。

『世語』によれば、娘の辛憲英は太常の羊耽に嫁ぎ、聡明で人を見る目がありました。司馬懿が曹爽を討とうとして城門を閉ざしたとき、大将軍参軍であった弟の辛敞に、職責を捨てずに出て行くよう勧め、鍾会の参軍となった息子の羊琇には、仁と寛容によって身を守るよう諭したので、羊琇はついに身を全うしました。陳寿は辛毗と楊阜について「剛毅で明らか、公正で実直であり、正しく諫めて身を顧みなかった。汲黯の高い気風に次ぐものである」と評しました。

辛毗、楊阜,剛亮公直,正諫匪躬,亞乎汲黯之高風焉
辛毗と楊阜は剛毅で明らか、公正で実直であり、正しく諫めて身を顧みなかった。汲黯の高い気風に次ぐものである『三国志』魏書 辛毗 · 楊阜 · 高堂隆伝 評
佐治,卿持我何太急邪
佐治よ、卿はなぜこうも激しくわたしを引き止めるのか『三国志』魏書 辛毗伝 · 裾をつかまれた文帝の言葉

三国志演義

『三国演義』 第32~33回 · 第79回 · 第86回 · 第95回 · 第97回 · 第103回

演義で辛毗は第32回に初めて登場します。袁尚に押された袁譚に、郭図が曹操に降って袁尚を討たせるよう勧め、使者として辛評の弟で、いまは平原令の辛毗を推挙します。辛毗は袁譚の書状を懐に夜通し馬を走らせ、西平の曹操の陣に至ります。程昱 · 呂虔 · 満寵は信用できないと言い、荀攸は受け入れるべきだと言う中、曹操が酒宴の席で袁譚の降伏が真か偽かを問うと、辛毗は真偽を問わず情勢だけを見るべきだとして、先に河北を平定するよう勧めます。曹操は「辛佐治に会うのが遅かったのが悔やまれる」と言い、その日のうちに軍を返します。

鄴を包囲したとき、辛毗が城外で袁尚の印綬と衣服を槍の先に掲げて城内の者に投降を促すと、怒った審配は辛毗の家族八十余人を城壁の上で斬り、その首を投げ落とします。辛毗と親しかった審配の甥の審栄はこれを無念に思い、城門を開くという書状を矢に結んで射込み、辛毗がそれを曹操に献じます。落城後、捕らえられた審配に会った辛毗は歯ぎしりして鞭でその頭を指し、曹操の前で地に伏して泣き、彼を殺して恨みを晴らさせてほしいと願います。第33回で曹操は、南皮で降伏を願いに来た辛評に「お前の弟の辛毗は、わしがすでに重く用いている」と言います。

第79回で辛毗は華歆 · 王朗らとともに、献帝に曹丕への譲位を迫る一団に加わります。第86回では呉を討とうとする曹丕に、土地は広く民は少ないので十年のあいだ兵を養い屯田してから用いるべきだと進言して、「腐儒の言」と叱責されます。第95回では孫礼とともに兵5万を率いて曹真の救援に向かい、第97回では孫礼とともに、蜀軍が再び祁山に出たとの急報をもたらします。

第103回、諸葛亮が五丈原から頭巾と女物の衣を送って司馬懿を辱めると、司馬懿は出戦を願う上表をします。衛尉辛毗は曹叡に、司馬懿にはもともと戦う気がなく、諸将の怒りを抑えるためにこの上表をしたのだと解き明かし、節を持って渭水北岸の陣に赴いて、なおも出戦を言い出す者は勅命に背いた罪で処すると告げます。司馬懿はひそかに「公はまことにわしの心を分かっておられる」と言います。この知らせを聞いた諸葛亮は笑って姜維に、千里の外から戦いを請うような法がどこにあるかと言い、司馬懿は曹叡の意向を借りて諸将を抑え、蜀軍の気を緩ませようとしているのだと解き明かします。演義で辛毗が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 203袁譚の使者として曹操を訪ね、袁氏兄弟が崩れつつあるいまこそ河北を討つべきだと勧めました。
  2. 204鄴が落ちたのち議郎となり、兄の家族を殺した審配を馬の鞭で打ちました。
  3. 217曹洪が下弁を攻めたとき、曹休とともにその軍に参与しました。
  4. 220文帝が即位すると侍中となり、その後、冀州の士家を移そうとする文帝の裾をつかんで諫めました。
  5. 223曹真の江陵遠征で軍師を務め、帰還して広平亭侯となりました。
  6. 226明帝が即位すると潁郷侯に進み、食邑300戸を受けました。
  7. 234明帝は彼を大将軍軍師とし、節を授けて諸葛亮と対峙する軍に送りました。軍令を携えた使者
  8. 234節を手に、戦おうとする司馬懿を抑え、ついに出戦させませんでした。軍門の節
  9. 234諸葛亮が死ぬと、再び衛尉に戻りました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

兄 辛評 · 子 辛敞 · 娘 辛憲英(羊耽の妻)

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

行く手を阻ませてもらおう。

口を開くとき

袖をつかんででも言うべきことは言う。

言い返すとき

位で押さえつけようとなさるな。わしは屈せぬ。

言葉に詰まって

…それでも志は曲げぬ。

言葉に詰まって

正論は罪ではあるまい。

舌戦に勝って

竹は折れても曲がりはせぬ。

舌戦に敗れて

言葉で負けても志は変わらぬ。

勝ったあと

立ちはだかった甲斐があった。

敗れたあと

…袖をつかみ損ねたか。

倒れるとき

袖をつかんだこの手、恥じてはおらぬ。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真