字 仲翔 · 不詳 ~ 不詳 (229年以後) · 揚州会稽郡余姚県 · 王朗配下
優れた学識と慧眼を持ちながら、曲げぬ頑固さゆえ流された大学者
出典 · 『三国志』呉書 虞翻伝と裴松之注の『呉書』 · 『虞翻別伝』 · 『江表伝』 · 『呉歴』 · 『会稽典録』 · 魏書 王朗伝 · 華歆伝 · 呉書 孫策伝 · 劉基伝 · 諸葛瑾伝 · 呂蒙伝と裴松之注の『呉書』
虞翻は字を仲翔といい、会稽郡余姚県の人です。裴松之注に引く『呉書』によれば、彼は幼い頃から学問を好み、気概が高かったといいます。12歳のとき、兄を訪ねてきた客が自分のところに立ち寄らずに帰ると、「琥珀は腐った芥子粒を拾わず、磁石は曲がった針を受けつけないというから、通り過ぎて留まらないのももっともだ」という手紙を追って送り、客がこれを奇異に思ったことで名が知られました。『虞翻別伝』によれば、彼の家は零陵太守を務めた高祖父の虞光の代から孟氏の易を修め、五代にわたってその学問を継いでおり、父の虞歆は日南太守でした。
会稽太守の王朗が彼を功曹に任じました。建安元年(196)、孫策が会稽を攻めに来ると、父の喪中であった虞翻は喪服姿のまま役所に出向いて孫策を避けるよう勧めましたが、王朗は聞き入れず、迎え撃って敗れ海へ逃れました。虞翻は彼に付き従って守り、候官に至りましたが、県長が城門を閉ざすと説得して中に入れさせました。王朗が「そなたには老いた母がいるのだから帰りなさい」と言うと、ようやく帰ってきました。『虞翻別伝』はこれとは異なり、彼が王朗の使いで豫章に向かう途中で引き返し、喪中にも家に立ち寄らず王朗を追ったと記しています。孫策は戻ってきた彼を再び功曹とし、友人の礼で遇して自ら彼の家を訪ねました。
孫策が馬を駆り狩猟を好むと、虞翻は「人の君たる者が重々しくなければ威厳がない」として軽々しく出歩かないよう諫め、孫策はその言葉をもっともだと言いました。『江表伝』によれば、孫策は黄祖を討って帰る途中で豫章を収めようとした際、虞翻を先に遣わして自分の意向を伝えさせ、虞翻が太守の華歆に会って形勢を説くと、華歆は翌朝城を出て属吏を遣わし孫策を出迎えました。『呉歴』も似た話を記していますが、裴松之は、華歆は自らの力を量って矛を収めたのであって、必ずしも虞翻の言葉のためではないと見ました。虞翻はのちに富春県の長として出ました。
建安5年(200)、孫策が死ぬと諸県の長吏たちが喪に駆けつけようとしましたが、虞翻は隣県の山越の民が変事を起こすことを恐れて留まり、喪服を着て喪に服したので、諸県もこれにならって皆平穏でした。『会稽典録』は、このとき彼が会稽を狙っていた孫策の従兄の孫暠を説いて退かせたと記しています。のちに州から茂才に推挙され、漢の朝廷が侍御史として、司空の曹操も招きましたが、いずれも応じませんでした。彼は少府の孔融に手紙とともに自作の『易注』を示し、孔融は「東南の美しいものが会稽の竹箭だけではないことがわかった」と答えました。
孫権は彼を騎都尉としました。虞翻はたびたび面と向かって諫めたので孫権は快く思わず、性格が世俗と合わずに多くの誹謗を受け、罪を得て丹楊郡涇県に移されました。関羽攻略を企てた呂蒙は、病を口実に建業へ戻ったとき、虞翻が医術にも通じているとして彼を伴うことを願い出ましたが、これには彼を赦免させようという意図もありました。呂蒙伝の裴松之注に引く『呉書』によれば、公安を守っていた将軍の士仁が会おうとしなかったので、虞翻は手紙を送って彼を降伏させ、士仁を連れて南郡へ向かうよう呂蒙に告げました。南郡太守の糜芳が城門を開いて降伏しましたが、呂蒙が城に入る前に砂洲で楽を奏でて宴を開くと、虞翻は「いま心を一つにしているのは糜将軍だけで、城内の者をすべて信じることはできない」と言って急いで入城するよう勧め、城内に潜んでいた謀略はこのおかげで崩れました。関羽が敗れると孫権が占わせましたが、虞翻は「二日を過ぎずに必ず首を斬られるでしょう」と言い、果たしてその言葉どおりになりました。孫権は「卿は伏羲には及ばないが、東方朔とは比肩できる」と言いました。
孫権は関羽に捕らえられていた魏の将軍于禁を解放して馬を並べて出かけましたが、虞翻は「降伏した捕虜がどうして我が君と馬首を並べるのか」と言って鞭で打とうとし、孫権に制止されました。楼船の宴で于禁が音楽を聞いて泣くと、「偽って生き延びようとするのか」と言って孫権を不快にさせました。孫権が呉王となったのち、宴の終わりに自ら立って酒を勧めて回ると、虞翻は地に伏して酔ったふりをして杯を受けず、孫権が通り過ぎると起き上がって座りました。激怒した孫権が剣を取って斬ろうとすると、大司農の劉基が彼を抱きとめて制し、孫権が「曹孟徳でさえ孔文挙を殺したのだ、わしが虞翻ごときを」と言うと、「孟徳は士を軽々しく害したので天下がこれを非としたのです」と重ねて諫め、虞翻は死を免れました。孫権はこれ以後、酒の後に殺せと言った言葉には従うなと命じました。また船で行く途中で糜芳の船と出会うと、「忠と信を失って何をもって君に仕えるのか。人の二城を傾けておきながら将軍を名乗ってよいのか」と叱りつけたので、糜芳は戸を閉ざして答えずに道を避けました。
虞翻は性格が粗く剛直で、酒による失敗がたびたびありました。孫権が張昭と神仙について語っていると、彼は張昭を指さして「彼らは皆いずれ死ぬ人間なのに神仙を語る。世にどうして神仙がいようか」と言い、怒りが積もりに積もった孫権はついに彼を交州へ移しました。諸葛瑾伝は、流罪となった虞翻のためにただ諸葛瑾だけがたびたび弁護したと記しています。罪を受けて追われても彼は講学を怠らず、門弟は常に数百人にのぼり、『老子』 · 『論語』 · 『国語』に注釈をつけ、いずれも世に伝わりました。『虞翻別伝』によれば、彼は孫権が皇帝になると配所から祝賀の文を奉り、南方で「生きては共に語る者もなく、死んでは青蠅が弔問客となるだろう。天下に私を理解してくれる者が一人でもいれば恨みはない」と言いました。
南方に十数年いて、70歳で亡くなりました。『呉書』によれば、彼は流罪の身でも国を忘れず、海を越えて遼東に人と財物を送って馬を求めるのは国の利にならないという文を作って交州の呂岱に見せましたが、呂岱は答えず、彼を憎む者の告発によってさらに蒼梧郡猛陵県へ移されました。『江表伝』によれば、のちに遼東へ送った将兵が海上で風に遭って多くを失うと、孫権は虞翻が明敏で剛直、言を尽くす国の正しい臣であったと悔やみ、生きていれば都に帰らせよと命じましたが、彼はすでに亡くなっていました。彼は故郷の旧墓に帰葬され、妻子も帰ることができました。息子は11人おり、四男の虞汜が最も名高く、虞忠は宜都太守、虞聳は越騎校尉、虞昺は済陰太守を務めました。陳寿は「虞翻は古の狂直の人であり、末世に禍を免れがたかったが、孫権が彼を包容できなかったのも広い度量とはいえない」と評しました。
虞翻古之狂直,因難免乎末世,然權不能容,非曠宇也乃知東南之美者,非徒會稽之竹箭也『三国演義』 第15回 · 第29回 · 第43回 · 第75回
演義で虞翻は第15回に初めて登場します。会稽太守の王朗が孫策に追われた厳白虎を救おうとすると、郡吏の虞翻が「孫策は仁義の軍であり、厳白虎は暴虐の輩ですから、厳白虎を捕らえて孫策に差し出しなさい」と諫めます。演義は彼を会稽余姚の人で字を仲翔と紹介し、王朗が怒って叱りつけると、彼は長く嘆息して退きます。のちに周泰が大怪我を負うと、董襲が以前に会稽の賢い郡吏虞翻が推薦した医者のおかげで半月で治ったと言い、孫策は張昭と董襲を遣わして虞翻を迎え、功曹とします。虞翻は沛国譙郡の人華佗を推薦します。
第29回で孫策が廬江を奪って劉勲を破ったのち、虞翻に檄文を持たせて豫章へ遣わすと、太守の華歆が降伏します。第43回で諸葛亮が江東の士たちと論戦を交えるとき、虞翻は「曹公は兵百万、将千人を率いて江夏を呑もうとしているが、公はどう思われるか」と問います。諸葛亮が袁紹の蟻のような兵と劉表の烏合の衆を収めたにすぎないと切り返すと、虞翻は、当陽で敗れ夏口で策が尽きて人に救援を求めておきながら恐れていないと言うのは大言で人を欺くものだとあざ笑います。諸葛亮が、江東は兵も兵糧も豊かで長江の険まであるのに主君を賊に跪かせようとしていると言い返すと、虞翻は答えられません。
第75回で荊州を得た孫権が、公安の傅士仁と南郡の糜芳をどう収めるかを問うと、虞翻が進み出て、弓を一度も射ることなく三寸の舌で傅士仁を降伏させてみせると言い、自分は幼い頃から傅士仁と親しかったと述べます。兵五百を率いて公安に至った彼は、城門が閉ざされていたので手紙を矢に結んで城内へ射込み、関羽を恐れていた傅士仁は城門を開いて彼を迎え、ともに印綬を携えて降伏します。演義で虞翻が名を出して登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 虞歆 · 子 十一人(四男 虞汜 · 虞忠 · 虞聳 · 虞昺 など)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
まっすぐな言葉を申そう。
直言が耳障りなら、先に申されよ。
耳に心地よい言葉は望まれるな。
…また言い過ぎたか。
このままでは交州へ流されそうだ。
直言は最後には勝つものだ。
…舌が禍を招くか。
まっすぐな言葉が勝った。
…また南へ行くことになりそうだ。
まっすぐな言葉がわしを南へ送った。