字 不詳 · 不詳 ~ 不詳 (214年以後) · 益州巴郡 · 劉璋配下
降る将軍などいないと屈せず、張飛の賓客となった巴郡の将
出典 · 『三国志』蜀書 張飛伝 · 関張馬黄趙伝 評と裴松之注の『華陽国志』 · 『華陽国志』公孫述劉二牧志
厳顔は益州牧劉璋の将です。字や生没年は伝わらず、『三国志』では張飛伝の本文とその裴松之注にだけ名が見えます。『華陽国志』は彼を「巴郡の厳顔」と呼んでいます。
建安16年(211)、劉璋の招きを受けた劉備が長江をさかのぼって巴郡に至ると、厳顔は胸を叩いて「これがいわゆる、独り奥山に座って虎を放ち、我が身を守らせるというものか」と嘆いたと、張飛伝の裴松之注に引く『華陽国志』は記しています。
その後、劉備が葭萌から引き返して劉璋を攻めると、張飛は諸葛亮らとともに長江をさかのぼり、郡県を分担して平定しました。張飛伝は、張飛が江州に至り、劉璋の将である巴郡太守の厳顔を破って生け捕りにしたと記しています。張飛が「大軍が来たのに、なぜ降伏せずにあえて抗戦したのか」と叱りつけると、厳顔は「貴公らは理不尽にも我が州を侵し奪った。我が州には首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はいない」と答えました。怒った張飛が引き出して首を斬れと命じましたが、厳顔は顔色ひとつ変えず「斬るなら斬ればよい、なぜ怒るのか」と言ったので、張飛は彼を見事だと思って釈放し、賓客としました。
『華陽国志』公孫述劉二牧志はこの出来事を建安19年(214)のこととし、その時に城を守った巴郡太守は巴西の人趙筰で、張飛が破って生け捕りにした厳顔は将軍であったと記しており、張飛伝とは異なります。陳寿は、張飛が義によって厳顔を釈放したことに国士の風格があったと評しました。
史書に残るのはこれだけです。賓客となったのち厳顔がどんな官職に就いたのか、いつどのように亡くなったのかは伝わっていません。
我州但有斷頭將軍,無有降將軍也此所謂獨坐窮山,放虎自衛也『三国演義』 第63~65回 · 第70~72回
演義で厳顔は第63回に初めて登場します。劉璋が法正を遣わして劉備を迎え入れると聞いた巴郡の厳顔は、胸を叩いて「独り奥山に座って虎を引き入れ、我が身を守らせるようなものだ」と嘆きます。演義は彼を、年老いても気力が衰えず、強弓をよく引き大刀を使う巴郡太守として描きます。張飛が大道から攻め込んでくると、彼は城を固く守って出ず、降伏を勧めに来た兵の耳と鼻を削いで送り返し、城楼から射た矢で張飛の兜を射当てます。しかし張飛が間道からひそかに巴郡を通り過ぎるという話を漏らすと、後続の輜重を断とうと林に潜みますが、先に行ったのが偽の張飛だったと知り、背後から襲いかかった張飛に一合も持たずに生け捕りにされます。引き立てられても跪かずに「首を斬られる将軍はいても、降伏する将軍はいない」と罵ると、張飛は階段を下りて自ら縄を解き、衣を着せて中央の上座に座らせてから拝礼して詫び、厳顔はその恩に感服して降伏します。
第64回で厳顔は、雒城までの関所がすべて自分の管轄だと言って先頭に立ち、ためらう者たちに「私でさえ降伏したのだ、ましてお前たちは」と言って、一度も戦わずに関所四十五か所を開かせます。劉備は着ていた黄金の鎖子甲を脱いで彼に与え、第65回で益州牧となったのち彼を前将軍とします。
第70回で張郃が葭萌関を攻めると、黄忠が厳顔を副将として共に出陣し、老人二人を送ったとあざ笑う者たちの前で、厳顔は間道から張郃の背後に回り、黄忠とともに彼を破ります。続いて曹操の兵糧を蓄えた天蕩山を攻めようと進言し、山の裏に潜んで火を放ち、火を消しに来た夏侯徳を一刀のもとに斬ります。第71回で劉備は彼を巴西の閬中へ送り、張飛 · 魏延に代わって要所を守らせ、第72回で張飛と魏延は、厳顔が閬中を代わって守ったおかげで兵を分けて南鄭を先に押さえます。演義で厳顔が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
この老いぼれが出るぞ!
巴郡の老将だ。首はあっても膝はない。
降伏という言葉はわが辞書にない。
…腕の力が抜けてくる。
それでも膝はつかぬ。
首を刎ねられる将軍はおっても、降る将軍はおらぬ。
…首を刎ねよ。それだけだ。
老いた首はまだ繋がっておるぞ!
…首はくれても膝は折らぬ。
断頭将軍はあれど、降将はなし。