字 不詳 · 不詳 ~ 213年頃 · 益州蜀郡 · 劉璋配下
二君に仕えずと首を差し出した劉璋の将
出典 · 『三国志』蜀書先主伝と裴松之注の『益部耆旧雑記』 · 龐統伝 · 『華陽国志』公孫述劉二牧志
張任は益州牧劉璋の将です。『三国志』に彼自身の伝はなく、先主伝の本文に名が一度出てくるほか、裴松之が引く『益部耆旧雑記』の二つの断片と『華陽国志』に数行あるだけです。字や生年、家族は伝わっていません。
『益部耆旧雑記』によれば、張任は蜀郡の人で代々貧しい家に生まれましたが、若いころから胆力と勇気があり、志と節操があって州の従事となりました。
建安17年(212)、張松の内通が露見して劉璋と劉備が仇敵となると、劉備は白水軍督の楊懐を斬って涪へ進み、その城を占拠しました。先主伝は、劉璋が劉璝・冷苞・張任・鄧賢らを送って涪で劉備を防がせましたが、みな敗れて綿竹へ退いたと記し、『華陽国志』はこれを建安18年(213)のこととし、呉懿の名も合わせて記します。『益部耆旧雑記』は、張任と劉璝が精兵を率いて涪で防いだものの劉備に破られ、退いて劉璋の子劉循とともに雒城を守ったと記します。
先主伝によれば、劉備が包囲した雒城は一年近く持ちこたえました。龐統伝は、その間に龐統が兵を率いて城を攻め、流れ矢に当たって死んだと記しますが、誰が射た矢かはどの史書にもありません。張任は兵を率いて雁橋に出て戦いましたが、再び敗れて捕らえられました。劉備は彼の忠勇を聞いて兵に降伏を勧めさせましたが、張任は「老臣は決して二君に仕えはしない」と声高く言いました。劉備は彼を殺し、嘆いて惜しみました。雒城は建安19年(214)夏に陥落しました。
史書に残るのはこれだけです。張任が捕らえられて死んだ年は記されておらず、陳寿が別に残した評もありません。
老臣終不復事二主矣少有膽勇,有志節,仕州為從事『三国演義』 第60~64回
演義で張任は第60回に劉璋の将として初めて登場します。涪で劉備に会って喜ぶ劉璋に、劉璝・冷苞・鄧賢とともに、劉備は柔の中に剛を秘めているから防がねばならないと言います。第61回の宴で魏延が劉璋を狙って剣舞を舞うと、従事の張任が剣を抜いて、舞には相手が要ると言って相対して舞います。
第62回で劉璋は劉璝・冷苞・張任・鄧賢に五万の兵を与えて雒城を守らせます。道中、錦屏山の紫虚上人が、幼い鳳凰が地に落ち臥した龍が天に昇るという八句を書いて与えると、張任は狂った老人の言葉を聞いて何になろうかと背を向けます。彼は劉璝とともに雒城を守ります。
第63回で張任は、雒城の東南の山中の間道を自ら守ると言って三千の兵とともに潜み、先を行く魏延の兵はそのまま通して、後から来る龐統の兵を待ちます。兵たちが白馬に乗った大将を劉備だと指さすと張任は矢を浴びせさせ、落鳳坡という地名を聞いて退こうとしていた龐統は乱れ飛ぶ矢に当たって死にます。張任は勢いに乗って劉備を涪関まで追い詰めます。
第64回で張任は城外に出て劉備を山道へ追い、駆けつけた張飛に阻まれ、わざと負けて張飛を包囲したりもします。捕らえられた呉懿から、張任は胆力と知略に優れ軽く見てはならないと聞いた諸葛亮は、まず張任を捕らえねば雒城は得られないとして金雁橋に罠を仕掛けます。隊伍も整えない兵で橋を渡ってきた諸葛亮を、張任が名ばかりで中身がないと追うと、橋が落とされ、葦原の槍と刀が馬の脚を斬り、張任は山道へ逃げるところを張飛に捕らえられます。劉備がなぜ早く降らなかったのかと言うと、張任は、忠臣がどうして二君に仕えようか、今日降ってもいずれまた降らないだろうから早く殺せと叫びます。劉備が殺すに忍びずにいると、諸葛亮がその名を全うさせてやるべきだと言って斬らせ、劉備は彼を金雁橋のそばに葬って忠義を称えます。演義で張任が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
蜀郡の張任である。
蜀の者だ。この地を他人には渡せぬ。
忠臣は二君に仕えず。
…雒城の前の要路をいまも覚えておる。
白馬に乗った者を狙ったまでのこと。
屈せぬ言葉が勝つのだ。
言葉では負けたが、志は折れぬ。
この地はわしが守る。
死すとも膝は屈せぬ。
二君には仕えぬ。