字 文懿 · 不詳 ~ 238年 · 幽州遼東郡襄平県 · 一勢力の主
魏と呉の間で綱渡りをし、司馬懿に滅ぼされた遼東最後の支配者
出典 · 『三国志』魏書公孫度伝に付された公孫淵伝と裴松之注の『呉書』 · 『魏略』 · 『魏書』 · 『漢晋春秋』 · 明帝紀 · 毌丘倹伝 · 東夷伝 · 呉書呉主伝と裴松之注の『江表伝』 · 張昭伝 · 『晋書』宣帝紀
公孫淵は遼東の襄平を本貫とする公孫氏の三代目です。祖父の公孫度は中平6年(189)に遼東太守となり、東は高句麗を、西は烏桓を討って、自ら遼東侯 · 平州牧を称しました。父の公孫康は建安12年(207)に遼東へ逃れてきた袁尚の首を斬って曹操に送り、襄平侯に封じられました。公孫康が死んだとき、息子の公孫晃と公孫淵はいずれも幼かったため、人々は叔父の公孫恭を遼東太守に立てました。公孫淵の字と生年は『三国志』になく、『晋書』は彼を公孫文懿と呼んでいます。
公孫恭は病のために宦者のようになって体が弱く、国を治めることができませんでした。太和2年(228)、公孫淵が叔父を脅して地位を奪うと、明帝は彼を揚烈将軍 · 遼東太守とし、太和4年(230)には車騎将軍を加えました。『晋書』は彼が叔父を幽閉したと記しています。裴松之注に引かれた『魏略』によれば、人質として洛陽にいた兄の公孫晃は、弟が叔父の地位を奪ったと聞くと、ついには信用できない者だとして何度も上書し、討伐を願いましたが、明帝はすでに権力を握った彼を懐柔する道を選びました。
公孫淵は南の孫権に使者を送り、往来して財物をやりとりしました。呉主伝によれば、嘉禾元年(232)、彼は校尉の宿舒と郎中令の孫綜を遣わして呉に藩国を称し、貂と馬を献じ、孫権は大いに喜びました。翌年(233)、顧雍をはじめとする臣下が皆止め、張昭が「公孫淵は魏に背き、討伐を恐れて遠く救援を求めているのであって、本心ではない」と諫めたにもかかわらず、孫権は太常の張弥と執金吾の許晏らに兵一万と金宝 · 九錫を持たせて海を渡らせ、彼を燕王に封じました。しかし公孫淵は、孫権は遠くて頼りにならないと考え、財物も欲しくなって、使者を誘い入れて張弥 · 許晏らの首を斬り、魏に送りました。その年の12月、明帝は彼を大司馬とし、楽浪公に封じました。『江表伝』によれば、孫権は「鼠輩に翻弄され、怒気が山のごとく湧き上がる」と言ってみずから討とうとしましたが、薛綜らが強く止めたため取りやめました。
封爵を伝えに魏の使者が来ると、公孫淵は甲冑をつけた兵を陣のように並べて出迎え、国内の賓客の前で何度も暴言を吐きました。景初元年(237)、明帝が幽州刺史の毌丘倹らに璽書を持たせて彼を召し出そうとすると、公孫淵は兵を挙げて遼水で迎え撃ち、毌丘倹は不利になって引き返しました。明帝紀は、十日続いた雨で遼水が大いに増水したため、毌丘倹に軍を返させたと記しています。その後、公孫淵は自ら燕王となって百官を置き、紹漢元年と称し、鮮卑の単于に印綬を与えて辺境の民を誘い、北方をかき乱しました。『漢晋春秋』によれば、魏が攻めてくると聞いた彼は再び呉に臣を称して救援を求め、孫権は使者に「司馬懿は行く先々で向かうところ敵なしゆえ、弟のことが深く案じられる」と伝えさせました。
景初2年(238)春、明帝は太尉の司馬懿に兵4万を与えて公孫淵を討たせ、司馬懿は6月に遼東に至りました。公孫淵は将軍の卑衍と楊祚らに歩騎数万を与えて遼水に駐屯させ、20里余りにわたって囲みの塹壕を掘りましたが、司馬懿はその陣を捨て置いてまっすぐ襄平へ向かいました。襄平が手薄になるのを恐れて夜に退いた卑衍らは、首山で再び決死の覚悟で迎え撃ちましたが大敗し、司馬懿は城下に至って包囲を敷きました。おりしも長雨が三十日余り続いて遼水が増水し、兵糧船が城下まで届きました。『晋書』によれば、魏の朝廷では軍を呼び戻そうという声が上がりましたが、明帝は、司馬懿は日数を見計らって彼を捕らえるだろうと言いました。雨がやむと魏軍は土山と望楼を築いて石や弩を城内に打ち込み、追い詰められた公孫淵の城では兵糧が尽きて人が互いに食い合い、死ぬ者が多く出て、将軍の楊祚らが降伏しました。
『晋書』によれば、公孫淵は相国の王建と御史大夫の柳甫を遣わし、包囲を解けば自ら縛について出ると願い出ましたが、司馬懿は二人を斬りました。さらに侍中の衛演を遣わして日を決めて人質を送ると申し出ると、司馬懿は「戦えるなら戦い、戦えぬなら守り、守れぬなら逃げるものだ。残る二つは降伏と死のみ。自ら縛について出てこないのは死ぬと決めたということだから、人質を送るには及ばぬ」と言って追い返しました。8月丙寅の夜、長さ数十丈の大きな流星が首山の東北から襄平城の東南へ落ち、壬午の日に公孫淵の軍勢が崩れると、彼は息子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突破し、東南へ逃れました。魏軍が急追し、流星が落ちたまさにその場所で父子を斬りました。城が落ちると相国以下千を数える者が斬られ、公孫淵の首は洛陽へ送られました。これにより遼東 · 帯方 · 楽浪 · 玄菟がすべて平定されました。『晋書』は、城に入った司馬懿が十五歳以上の男子七千余人を殺して京観(屍を積み上げた塚)を築き、幽閉されていた公孫恭を解き放ち、反乱を諫めて殺された将軍の綸直 · 賈範らの墓を封じたと記しています。東夷伝は、高句麗王の位宮が数千人を送って魏軍を助けたとしています。
公孫淵伝は、その頃、公孫淵の家で怪異が相次いだと記しています。犬が頭巾をかぶり赤い衣を着て屋根に上り、飯を炊く甑の中で幼子が蒸し殺されており、襄平の北の市では頭と目 · 口はあるが手足のない肉の塊がうごめいていました。占い師は「形はあっても成らず、体はあっても声がない。その国は滅びる」と言いました。公孫度が中平6年(189)に遼東を手にしてから三代50年で、公孫氏は滅びました。『魏略』によれば、洛陽の兄の公孫晃は、先に弟を討つよう上奏していたので罪を免れることを望みましたが、弟の首が届くと息子と向き合って泣き、明帝は助けようとしたものの、有司が許されないとしたため死を賜りました。陳寿は「公孫度は残忍で節度がなく、公孫淵はその業を継いで凶悪さを増し、自らの一族を覆しただけである」と評しました。
度殘暴而不節,淵仍業以載兇,秪足覆其族也軍事大要有五,能戰當戰,不能戰當守,不能守當走,餘二事惟有降與死耳『三国演義』 第105~106回
演義で公孫淵の名が初めて出てくるのは第105回の終わりです。幽州刺史の毌丘倹が、遼東の公孫淵が自ら燕王を称し、紹漢元年と改元して宮殿と官職を設け、兵を挙げて北方を揺るがしていると上表すると、曹叡は大いに驚きます。
第106回は、彼が公孫度の孫で公孫康の子であり、長じて文武を備え、剛毅で戦いを好む性分で、叔父の公孫恭の地位を奪ったと紹介します。孫権が送った張弥と許晏の首を斬って曹叡に送り、大司馬 · 楽浪公となりますが、それに満足せず燕王を称します。部将の賈範が魏の恩と司馬懿の用兵を挙げて止め、参軍の綸直が、犬が頭巾をかぶって屋根に上ったこと、甑の中の子ども、市の肉の塊といった怪異を挙げて諫めると、二人を縛って市で斬り、大将軍の卑衍を元帥に、楊祚を先鋒として、遼東の兵15万で出陣します。卑衍と楊祚は遼水に囲みを築いて持ちこたえますが、司馬懿がまっすぐ襄平へ向かうと追撃に出て、夏侯覇と夏侯威の伏兵に遭い、卑衍は夏侯覇に斬られます。公孫淵は襄平城に入り、門を閉ざして守ります。
秋雨がひと月やまなくても、司馬懿は陣を移そうと言う将を斬って持ちこたえ、雨が晴れた夜に大きな星が襄平の東南へ落ちると、五日後にその場所で公孫淵を斬るだろうと言います。城内の兵糧が尽きて牛や馬を殺して食べるようになると、公孫淵は相国の王建と御史大夫の柳甫を遣わし、二十里だけ退いてくれれば自ら降伏すると申し出ますが、二人は斬られます。さらに侍中の衛演を遣わして世子の公孫脩を人質に送ると申し出ると、司馬懿は「戦えるなら戦い、戦えぬなら守り、守れぬなら逃げ、逃げられぬなら降り、降れぬなら死ぬのみ」と言って退けます。その夜、公孫淵父子は千人を率いて南門を開き、東南へ逃れますが、司馬懿父子と胡遵 · 夏侯覇 · 夏侯威 · 張虎 · 楽綝に囲まれて馬を下りて降伏し、大きな星が落ちた日がこの日に符合したという司馬懿の言葉とともに、向かい合って斬られます。司馬懿はその一族と、ともに謀った官員70余人を殺し、賈範と綸直の墓を封じます。演義で公孫淵が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
祖父 公孫度 · 父 公孫康 · 叔父 公孫恭 · 兄 公孫晃 · 子 公孫脩
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
遼東の主だ。
魏と呉の間で綱渡りをしてきた身だ。
遼東の算法は中原とは違う。
…綱が揺れるな。
一方に賭けるにはまだ早い。
綱渡りの極みをお見せした。
司馬懿…あの男さえおらねば。
遼東はわがものだ!
…綱渡りも終わりか。
綱渡りが…ここで切れるか。