公孫度

字 升済 · 不詳 ~ 204年 · 幽州遼東郡襄平県 · 公孫淵配下

公孫度の肖像

高句麗と烏桓を討ち、自ら遼東の王を気取った遼東太守

能力値

統率67武力71知力68政治63魅力42

カード

攻撃力 4体力 3コスト 2価値 9職分 猛将
消耗 コスト 2
敵全体の体力−1(永続)。反撃も共に弱まる

正史

出典 · 『三国志』魏書公孫度伝 · 公孫淵伝と裴松之注の『魏書』 · 管寧伝 · 邴原伝 · 涼茂伝と裴松之注の『傅子』 · 『先賢行状』 · 東夷伝 · 『後漢書』公孫康伝

公孫度は字を升済といい、もとは遼東郡襄平県の人です。父の公孫延は役人の手を逃れて玄菟郡へ移り住み、公孫度を郡の役人にしました。父の名は後の孫の公孫淵と読みが同じですが、字が異なります。そのころ玄菟太守公孫琙の子公孫豹が十八歳で早世しましたが、公孫度は幼名が豹で、年もその子と同じでした。公孫琙は彼を見て実の子のようにかわいがり、師のもとへ送って学ばせ、妻も娶らせました。のちに有道科に推挙されて尚書郎となり、次第に昇進して冀州刺史となりましたが、郷里に流れる噂のために官を退きました。

同郡の人徐栄が董卓の中郎将となると、公孫度を遼東太守に推挙しました。『三国志』公孫淵伝の末尾は公孫度が中平6年(189)に遼東を支配したと記していますが、『後漢書』公孫康伝は中平元年(184)に本郡の太守になったと記しており、食い違います。玄菟の小役人から身を起こした彼を、遼東郡の人々は軽んじました。それより前、遼東属国の人公孫昭が襄平県令を代行していたとき、公孫度の子公孫康を呼びつけて伍長(五人を率いる末端)とさせたことがありました。公孫度は着任すると公孫昭を捕らえ、襄平の市で鞭打ち殺しました。郡の名だたる大族田韶ら、日ごろ彼に恩を施さなかった者たちもみな法によって誅し、滅ぼした家は百余家に及び、郡じゅうが震え上がりました。続いて東は高句麗を討ち、西は烏桓を撃って、威勢を海の外まで轟かせました。『三国志』東夷伝は、彼が海東で大いに勢力を張って外夷を威圧すると、夫余王尉仇台が玄菟から遼東に属を改め、高句麗と鮮卑が強かった時期であったので、公孫度は二つの夷のあいだに挟まれた夫余の王に一族の娘を妻として与えたと記しています。高句麗王伯固も大加の優居と主簿の然人らを送り、公孫度が富山の賊を討つのを助けて破りました。

初平元年(190)、公孫度は中原が乱れているのを知り、親しい役人柳毅 · 陽儀らに「漢の命運が絶えようとしている。諸君とともに王業を図らねばならぬ」と言いました。裴松之注に引かれた『魏書』は、彼が、讖書に「孫登」が天子となるとあり、太守の姓は公孫で、字の「升」はすなわち「登」であると解いたと記しています。そのころ襄平の延里の社に長さ一丈余りの大石が現れ、下には小石三つが足のように支えていました。ある者が、これは漢の宣帝のときの冠石と同じ吉兆であり、里の名が亡き父の名と同じで、社は土地をつかさどるので、土地を得て三公が補佐する兆しだと言うと、公孫度はますます喜びました。もとの河内太守李敏は郡で名の知れた人でしたが、公孫度のやり方を憎み、害されるのを恐れて家族を連れて海へ逃れました。公孫度は大いに怒って、その父の墓を暴いて棺を割り、遺骸を焼き、その一族を殺しました。

公孫度は遼東郡を分けて遼西郡と中遼郡を置いて太守を据え、海を渡って東莱の諸県を収めて営州刺史を置きました。自ら遼東侯 · 平州牧を称し、父の公孫延を建義侯に追封しました。漢の二祖の廟を建て、天子に代わると称して襄平城の南に壇を築いて天地を祭り、自ら田を耕し兵を治め、天子の車である鸞路に乗り、九旒の旗と羽飾りの騎兵を先立てました。『後漢書』はこれらを初平元年(190)のこととしています。

中原の戦乱を避けて遼東へ渡ってきた士人は多くいました。管寧伝は、公孫度の命令が海の外まで行き渡っていると聞いて、管寧が邴原 · 王烈らとともに遼東に至ると、公孫度が館舎を空けて待っていたと記しています。裴松之注に引かれた『傅子』は、管寧が公孫度に会っても経典のことだけを語って世事には触れず、気性のまっすぐな邴原の清議に公孫度は内心で安心できなかったと記しています。邴原伝によれば、公孫度は邴原と同郡の人である劉政が勇気と知略を備えているのを恐れて殺そうとし、その家族をことごとく捕らえました。逃れた劉政を邴原はひと月余り匿ったのち、郷里へ帰る東莱の太史慈に託して送り出しました。そのうえで邴原が「将軍が劉政を恐れたのは知略があったからですが、今や逃れ去った以上、どうしてその家族を捕らえておく必要がありましょう。放して恨みを重ねて買わぬようになさいませ」と説くと、公孫度はその家族を釈放しました。王烈は公孫度が与えた長史の職を辞し、商人となって自ら身を落としました。

曹操が上表して公孫度を武威将軍とし永寧郷侯に封じると、公孫度は「わしは遼東の王である。何が永寧か」と言って、その印綬を武器庫にしまい込みました。『後漢書』はこれを建安9年(204)に司空曹操が上表して奮威将軍とした件として記しており、将軍号が『三国志』と異なります。涼茂伝は、曹操が楽浪太守として送った涼茂を公孫度が勝手に引き留めて任地へ行かせなかったが、涼茂は最後まで屈しなかったと記しています。公孫度が「曹公は遠征に出て鄴には守備兵がいないという。歩兵3万と騎兵1万でまっすぐ鄴を攻めれば、誰が防げようか」と言うと、将たちはみなそのとおりだと言いました。涼茂は「将軍は十万の兵を擁して座したまま成否をうかがっておられますが、人の臣たる者がそれでよいのでしょうか。兵を起こして西へ向かえば、存亡はたちまちのうちに決するでしょう」と叱りつけ、将たちはみな驚いて動揺しました。しばらくして公孫度は「涼君の言うことが正しい」と言いました。ただし裴松之は、公孫度は建安9年に死に、曹操が鄴を平定したのもその年であるから、その後の曹操の遠征は柳城の征討だけで、そのとき公孫度はすでにいなかったとして、この話は前後がかみ合わないと述べました。

公孫度は建安9年(204)に死にました。子の公孫康が跡を継ぎ、永寧郷侯を弟の公孫恭に封じました。『傅子』は公孫康を公孫度の庶子と記しています。公孫康は建安12年(207)、遼東へ逃れてきた袁尚 · 袁熙の首を斬って曹操に送り、襄平侯となりました。公孫康が死んだ後、公孫恭が遼東太守となりましたが、太和2年(228)公孫康の子公孫淵に地位を奪われました。公孫淵が景初2年(238)に司馬懿に滅ぼされると、『三国志』は、公孫度が中平6年(189)に遼東を支配してから3代50年で滅んだと記しました。陳寿は「公孫度は残忍で節度がなく、公孫淵はその業を継いで凶悪さを重ねたので、ただその一族を覆すに足りただけである」と評しました。

度殘暴而不節,淵仍業以載兇,秪足覆其族也
公孫度は残忍で節度がなく、公孫淵はその業を継いで凶悪さを重ねたので、ただその一族を覆すに足りただけである『三国志』魏書公孫度伝 評
我王遼東,何永寧也
わしは遼東の王である。何が永寧か『三国志』魏書公孫度伝

三国志演義

『三国演義』 第33回 · 第106回

演義で公孫度は場面には登場せず、名前が二度出るだけです。第33回で袁熙 · 袁尚が数千騎を率いて遼東へ逃れると、演義は遼東太守公孫康を襄平の人で、武威将軍公孫度の子と紹介します。続いて公孫康は弟の公孫恭の策に従い、曹操が攻めて来るかどうかを人をやって探らせ、曹操が易州にとどまるだけで遼東へ下る気がないという知らせを聞くと、壁の帳の裏に刀や斧を持った兵を伏せて兄弟二人を呼び入れ、首を斬ります。

第106回では、遼東で立ち上がった公孫淵を公孫度の孫で公孫康の子と紹介し、公孫康が袁尚の首を献じて襄平侯となったことから、公孫恭が跡を継ぎ、公孫淵が叔父の地位を奪ったことまでを数行で語ります。公孫度が遼東太守となったこと、高句麗と烏桓を討ったこと、自ら遼東侯 · 平州牧を称したことは演義には出てきません。演義で公孫度が登場するのはこの二か所だけです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 189同郡の人である董卓の中郎将徐栄の推挙で遼東太守となりました。
  2. 189着任すると、子の公孫康を伍長として使った公孫昭を襄平の市で鞭打ち殺しました。
  3. 189郡の大族百余家を滅ぼし、東は高句麗を、西は烏桓を討ちました。
  4. 190親しい役人柳毅 · 陽儀に、漢の命運が絶えようとしているので王業を図ろうと言いました。
  5. 190自ら遼東侯 · 平州牧を称し、漢の朝廷から離れて立ちました。
  6. 204曹操が上表して武威将軍 · 永寧郷侯としましたが、印綬を武器庫にしまい込みました。
  7. 204死後、子の公孫康が跡を継ぎ、永寧郷侯は子の公孫恭に渡りました。
  8. 238孫の公孫淵が司馬懿に滅ぼされ、遼東の公孫氏は3代50年で絶えました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 公孫延(建義侯に追封) · 子 公孫康 · 公孫恭 · 孫 公孫晃 · 公孫淵

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

遼東侯公孫度である。海の外までわが地だ。

口を開くとき

遼東は海の外までわが命の届く地だ。何を言いに来た。

言い返すとき

言葉はもっともらしい。だが遼東ではわしの言葉がすなわち法だ。

言葉に詰まって

…涼茂にもしばし言葉がなかった。今日もそんな日か。

言葉に詰まって

鄴を攻めるという言葉も引っ込めた。この言葉も引っ込めねばならぬか。

舌戦に勝って

漢の命運は尽きかけておる。これからはそなたも遼東の者となれ。

舌戦に敗れて

遼東の王と言うたものを…一言で崩れるとはな。

勝ったあと

東に高句麗、西に烏桓。此度はそなたらの番であった。

敗れたあと

玄菟の小役人に戻るのか…

倒れるとき

遼東は…康に任せる。

同じ旗の下

公孫康公孫淵公孫恭