公孫康

不詳 ~ 不詳 (207年以後) · 幽州遼東郡襄平県 · 公孫淵配下

公孫康の肖像

袁氏兄弟の首を曹操に献じ、遼東の勢力を固く守った君主

能力値

統率73武力66知力65政治62魅力57

カード

攻撃力 4体力 4コスト 2価値 8職分 猛将

正史

出典 · 『三国志』魏書公孫度伝 · 武帝紀 · 袁紹伝と裴松之注の『典略』 · 牽招伝 · 劉劭伝 · 東夷伝 · 『後漢書』袁紹伝

公孫康は遼東郡襄平県の人で、遼東太守公孫度の子です。字や生年は伝わっていません。自身の伝はなく、『三国志』公孫度伝に数行が付されているほか、武帝紀 · 袁紹伝 · 牽招伝 · 東夷伝と『後漢書』袁紹伝に彼の事績が散らばっています。

父の公孫度は玄菟郡の小吏から身を起こし、同郡の出身で董卓の中郎将だった徐栄の推挙で遼東太守となりました。それより前、遼東属国の人の公孫昭が襄平県令を代行し、公孫康を召して伍長(五人を率いる末端の役)としたことがありましたが、『三国志』は、公孫度が赴任すると公孫昭を捕らえて襄平の市で鞭打ち殺したと記しています。公孫度は東は高句麗を討ち、西は烏桓を討って威勢を海の外にまで轟かせ、自ら遼東侯 · 平州牧を称しました。曹操が上表して彼を武威将軍とし、永寧郷侯に封じると、「わしは遼東の王だ。永寧など何になる」と言って、印綬を武器庫にしまい込みました。

建安9年(204)に公孫度が死ぬと公孫康が跡を継ぎ、永寧郷侯の爵位は弟の公孫恭に与えました。牽招伝によれば、この頃、公孫康は自ら平州牧を称し、使者の韓忠に単于の印綬を持たせて烏桓の峭王のもとへ送りましたが、韓忠が曹操の使者の牽招の前で「遼東は滄海の東にあって兵百万を擁している」と大言を吐くと、牽招はその頭をつかんで打ちつけ、剣を抜いて斬ろうとしました。『三国志』東夷伝は、建安年間に公孫康が兵を出して高句麗を討ち、その国を破って村々を焼き払い、王になれなかったことを恨んでいた高句麗王の兄の抜奇が涓奴加とともに三万余人を率いて降ってきたと記しています。また楽浪郡屯有県の南の荒地を割いて帯方郡を置き、公孫模 · 張敞らを遣わして散らばった民を集め、韓と濊を討ち、これ以後、倭と韓は帯方郡に属するようになったと記しています。

建安12年(207)、曹操が烏桓を破ると、袁尚と袁熙は遼東単于の速僕丸らとともに数千騎を率いて遼東へ逃れました。武帝紀によれば、公孫康は遠方であることを頼んで曹操に服従していませんでしたが、ある者がこの機に遼東を討とうと言うと、曹操は、公孫康に袁尚 · 袁熙の首を斬って送らせるから兵を煩わせはしないと言いました。9月、曹操が柳城から兵を返すと、公孫康は袁尚 · 袁熙と速僕丸らの首を斬って送ってきました。わけを尋ねる諸将に曹操は「彼らはもともと袁尚らを恐れている。わしが急げば力を合わせ、緩めれば自ら互いに謀り合う。それが成り行きというものだ」と答えました。裴松之注に引かれた『典略』によれば、袁尚は公孫康を討って遼東を奪うつもりでしたが、公孫康もいま袁熙 · 袁尚を捕らえなければ朝廷に申し開きができないと考え、厩に精兵を伏せておいて二人を呼び入れ、生け捕りにしました。『後漢書』は、捕らえられて凍った地面に座らされた袁尚が敷物を求めると、公孫康が「そなたの首はまもなく万里の道を行くのだ。何の敷物か」と答えたと記しています。朝廷は公孫康を襄平侯に封じ、左将軍としました。

公孫康がいつ死んだのかは伝わっていません。彼が死んだとき、息子の公孫晃 · 公孫淵らがいずれも幼かったため、人々は弟の公孫恭を遼東太守に立て、曹丕が皇帝になったのち、公孫康に大司馬が追贈されました。のちに息子の公孫淵が孫権から燕王の称号を受けたという噂が流れ、彼を討とうという議論が起こると、劉劭は、かつて袁尚兄弟が公孫康のもとへ行ったとき、公孫康がその首を斬って送ったのは公孫淵の先代が捧げた忠義であるとして、寛大に扱うよう述べました。陳寿は公孫度を暴虐で節度がなかったと、公孫淵はその業を継いで凶悪さを増し、自らの家を覆しただけだと評しましたが、公孫康については別に評していません。

今不取熙、尚,無以爲說於國家
いま袁熙と袁尚を捕らえなければ、朝廷に申し開きができない『三国志』魏書袁紹伝裴松之注の『典略』 · 公孫康の腹づもり
昔袁尚兄弟歸淵父康,康斬送其首,是淵先世之効忠也
かつて袁尚兄弟が公孫淵の父の公孫康のもとへ行ったとき、公孫康はその首を斬って送った。これは公孫淵の先代が捧げた忠義である『三国志』魏書 劉劭伝

三国志演義

『三国演義』 第33回 · 第106回

演義で公孫康が登場するのは第33回です。演義は彼を襄平の人で、武威将軍公孫度の子と紹介します。白狼山で敗れた袁熙と袁尚が数千騎を率いてやって来ると、公孫康は配下を集めて協議します。弟の公孫恭が、袁紹は生前から遼東を呑み込む野心を抱いていたのだから、二人が来たのは鳩が鵲の巣を奪おうという魂胆だとして、殺して曹操に献じようと言うと、公孫康は、曹操が攻めてくるならむしろ二人を受け入れて助けにするほうがよいとためらい、公孫恭は人をやって曹操の動きを探ろうと言います。公孫康は二人を客舎にとどめ、病を口実に会わずにいましたが、曹操が易州にとどまるだけで遼東へ下ってくる気はないと聞くと、壁の帳の陰に刀斧手を伏せて二人を招き入れます。袁尚が敷物を敷いてほしいと言うと、公孫康は目を怒らせて「お前たち二人の首はこれから万里の道を行くのだ。何の敷物か」と叱りつけ、座ったまま二人の首を斬って木箱に納め、易州の曹操に送ります。曹操は彼を襄平侯 · 左将軍に封じ、これは郭嘉が遺した書状の読みどおりだと明かします。

第106回の冒頭は公孫淵を紹介するなかで、公孫康が袁尚の首を斬って献じて襄平侯となり、彼が死んだのち二人の息子の公孫晃 · 公孫淵が幼かったので、弟の公孫恭が跡を継いだと記しています。演義で公孫康が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 189襄平県令を代行していた公孫昭が彼を伍長とし、赴任してきた父が公孫昭を鞭打ち殺しました。
  2. 204父の公孫度が死ぬと遼東を継ぎ、永寧郷侯の爵位は弟の公孫恭に与えました。
  3. 207遼東へ逃れてきた袁熙と袁尚を、厩に伏せた兵で生け捕りにしました。遼東の二人
  4. 207曹操が兵を返すと、袁尚 · 袁熙と速僕丸らの首を斬って送りました。兄弟の首を送る
  5. 207襄平侯に封じられ、左将軍となりました。
  6. 221曹丕が皇帝になったのち、大司馬を追贈されました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父 公孫度 · 弟 公孫恭 · 子 公孫晃 · 公孫淵

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

襄平から来た。

口を開くとき

遼東は己で守る。口出しはご免だ。

言い返すとき

待てば首が自ら歩いてくるものだ。

言葉に詰まって

…勘定し直さねばならぬな。

言葉に詰まって

遼東の冬は長いぞ。

舌戦に勝って

袁家兄弟の首がその答えだ。

舌戦に敗れて

やはり中原とは交わるべきではないな。

勝ったあと

遼東は今日も無事だ。

敗れたあと

…首を差し出してでも守ってみせる。

倒れるとき

遼東はわが手で守った。

同じ旗の下

公孫度公孫淵公孫恭