字 休昭 · 不詳 ~ 246年 · 荊州南郡枝江県 · 劉備配下
宦官黄皓を抑え、諸葛亮の死後に蜀漢を固く支えた四英
出典 · 『三国志』蜀書董允伝と裴松之注の『華陽国志』 · 董和伝 · 陳祗伝 · 諸葛亮伝の出師表 · 費禕伝と裴松之注の『費禕別伝』 · 魏延伝 · 姜維伝 裴松之注の『華陽国志』 · 先主伝 · 後主伝
董允は字を休昭といい、南郡枝江県の人で、掌軍中郎将董和の子です。董和は劉璋のもとで県令や太守を務め、質素に暮らして民や蛮夷の信頼を得ました。劉備が蜀を平定したのち掌軍中郎将となり、軍師将軍諸葛亮とともに左将軍大司馬府の事を担いました。二十年余り禄を受けましたが、死んだ日に家に一石の穀物もなかったといいます。
費禕伝によれば、董允は劉備が蜀を平定したのち、費禕や汝南の許叔龍と名声を並べました。許靖が子を亡くしたとき、董允と費禕が葬儀にともに行こうとすると、董和は後ろの開いた小さな車を出してやりました。董允は乗るのを渋る顔つきでしたが費禕は先に乗り込み、葬儀の場に諸葛亮や貴人たちの華やかな車が集まっても、董允は顔色が落ち着かず、費禕は泰然としていました。これを聞いた董和は「私はいつもお前と文偉の優劣を決めかねていたが、今ようやく私の考えがはっきりした」と言いました。
章武元年(221)に劉備が太子を立てると、董允は選ばれて太子舎人となり、洗馬に移りました。建興元年(223)に後主が位を継ぐと黄門侍郎となりました。建興5年(227)、北伐に出て漢中に駐屯することになった諸葛亮は、後主がまだ若く是非を見分けにくいことを案じ、心構えが公正で明晰な董允に宮中の事を任せようとしました。彼は出師表で、侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允は先帝が選んで陛下に遺された人々なので、宮中の事は大小なくすべて彼らに諮るよう言い、徳を興す言葉がなければ彼らを罰してその怠慢を明らかにするよう言いました。まもなく諸葛亮が費禕を参軍として呼び寄せると、董允は侍中となって虎賁中郎将を兼ね、宿衛の親兵を率いました。郭攸之は性格が温和で、席を埋めるだけだったので、君主に献言する役目はすべて董允が担いました。
董允は事を処理するにあたり、未然に防ぎ正す道理を尽くしました。後主が常々女性を選んで後宮を満たそうとすると、董允は、古の天子の后妃は十二人を超えず、今や妃嬪はすでに揃っているのでこれ以上増やしてはならないとして最後まで聞き入れず、後主はますます彼を憚りました。建興12年(234)に諸葛亮が死んだのち、魏延と楊儀が互いに相手が謀反したと上表すると、後主の問いに董允は蒋琬とともに楊儀を保証して魏延を疑いました。尚書令蒋琬は益州刺史を務めることになると、上表してこれを費禕と董允に譲り、董允が長年宮中に仕えて王室を助けたので、爵位と封土を与えてその功を称えるべきだと言いましたが、董允は固く辞退しました。
後主は成長すると宦官黄皓を寵愛しました。黄皓はへつらいがうまく狡猾で君主のそばに取り入ろうとしましたが、董允が上には顔色を正して君主を正し、下には黄皓をたびたび叱責したので、黄皓は董允を恐れてあえて悪事をなせませんでした。董允が生きている間、黄皓の官位は黄門丞を超えませんでした。董允は正しい道を守りながらも目下の者に身を低くしました。あるとき費禕・胡済らと遊びに出かけることにして車まで支度していたところ、若く官位の低い郎中董恢が挨拶に来て、彼が出かけようとしているのを見て退こうとしました。董允は、もともと出かけようとしたのは気の合う者と語り合うためなのに、君がわざわざ身を屈して来たのだから、この語らいを置いてあの宴へ行くのはよくないと言って馬を解かせ、費禕らも車を止めました。
延熙6年(243)に輔国将軍を加えられ、7年(244)には侍中として尚書令の事を担い、大将軍費禕の副となりました。裴松之注に引く『費禕別伝』は、費禕が朝夕に政務を見てその合間に客を迎え、飲食し博奕までしても事を誤らなかったが、その後を継いで尚書令となった董允が費禕に倣おうとすると十日で事が多く滞り、「人の才力がこれほどかけ離れているとは、私の及ぶところではない。一日中政務を見てもなお暇がない」と嘆いたと記します。董允は延熙9年(246)に死にました。裴松之注に引く『華陽国志』は、そのころ蜀の人々が諸葛亮・蒋琬・費禕と董允を四相と呼び、また四英とも呼んだと記します。
董允の後を継いで侍中となった陳祗が黄皓と内外で手を結ぶと、黄皓は初めて政事に関わるようになり、陳祗が死んだのちは黄門令から中常侍・奉車都尉となって権勢を振るい、ついに国を覆しました。蜀の人々はみな董允を慕いました。陳祗が寵愛を受けてから、後主は董允が自分を軽んじたとして日ごとに深く恨みましたが、陳寿はこれを陳祗のへつらいと黄皓の讒言がしみ込んだせいだと記しました。姜維伝裴松之注の『華陽国志』によれば、景耀5年(262)に姜維が黄皓を殺そうと言うと、後主は、黄皓は使い走りの取るに足らぬ臣にすぎず、かつて董允が歯ぎしりしたときも自分はいつも不満だったと言いました。孫の董宏は晋で巴西太守を務めました。
陳寿は評で「董允は君主を正し、義が顔色に表れた」と言い、董和・劉巴・馬良・陳震とともにみな蜀の賢臣だとしました。裴松之は、他の伝では子を父の伝に付けたのに董允だけが別に伝を立てられたのは、その名と地位が重く、事績が父に勝っていたためだろうと見ました。
董允匡主,義形於色允以為古者天子后妃之數不過十二,今嬪嬙已具,不宜增益『三国演義』 第85回 · 第91回 · 第105回
演義で董允は第85回に初めて登場します。魏が五方から攻め込むという急報にも諸葛亮が病と称して出てこないので、後主は黄門侍郎董允と諫議大夫杜瓊を丞相府へ遣わしますが、二人は中に入れず嘆息して戻ります。太后が自ら行こうとすると、董允は丞相には必ず深いお考えがあるはずなので、まず主上がお出ましになってみてくださいと止めます。
第91回で諸葛亮が上る出師表には、侍中・侍郎の郭攸之・費禕・董允は先帝が選んで遺した人々なので、宮中の事は大小なく彼らに諮るようにというくだりがそのまま載せられ、諸葛亮は出発に際して郭攸之・董允・費禕を侍中として残し、宮中の事を任せます。
第105回で諸葛亮が死んだのち、魏延と楊儀が互いに相手が謀反したと上表すると、董允は、魏延は功を頼んで常に不平を抱いており、丞相を恐れて動かなかっただけで、楊儀は謀反しないだろうと奏上します。後主は董允に節を与えて二人をなだめさせますが、董允が漢中の南鄭に着く前に馬岱が魏延を斬ります。その後、董允は名前だけで語られます。第107回で費禕は、蒋琬と董允が相次いで死んで内を治める者がいないとして姜維の出兵を諫め、第115回で後主は、黄皓を殺せという姜維に、かつて董允がいつも黄皓を歯ぎしりして憎んでいたが、自分はそれを不思議に思っていたと言います。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 董和 · 孫 董宏
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
朝廷の綱紀を正す。
宦官のへつらいはわしの前では通じぬ。
正論に位はない。
…朝廷が案じられる。
わしが崩れたら誰が防ぐ。
黄皓もわしの前では顔を上げられなんだ。
わしがおらねば宮中が濁るであろうに…。
綱紀が立てば勝てるのだ。
…黄皓が笑うであろう。
黄皓を抑えておいたのがわが功だ。