字 不詳 · 不詳 ~ 不詳 · 幽州涿郡 · 劉備配下
正史では早世したが、演義では蜀漢の次代として活躍した張飛の長男
出典 · 『三国志』蜀書 張飛伝 · 二主妃子伝 · 後主伝 · 魏書 鄧艾伝 · 『華陽国志』劉後主志
張苞は張飛の長男です。『三国志』張飛伝は「長男の張苞は早世した」という一行を残しただけで、彼の字や母、生没年、官職は記していません。
父の張飛は涿郡の人で、若いころから関羽とともに劉備に仕え、章武元年(221)、呉討伐に出発する直前に帳下の将の張達と范彊に殺されました。張飛の跡を継いだのは長男の張苞ではなく次男の張紹でした。張飛伝は張紹が侍中 · 尚書僕射に至ったと記し、後主伝は、景耀6年(263)に後主が鄧艾に降伏する際、侍中の張紹らを遣わして印綬を奉らせたと記します。張飛の二人の娘は後主劉禅の皇后となりました。長女は章武元年に皇太子妃となって建興元年(223)に皇后となり、建興15年(237)に彼女が死ぬと、翌年妹が皇后となりました。
張苞には息子の張遵がいました。張遵は尚書となり、景耀6年(263)に鄧艾が攻め込んでくると、諸葛瞻に従って綿竹で戦って死にました。鄧艾伝は鄧艾の兵が諸葛瞻と尚書の張遵らの首を斬ったと記し、『華陽国志』劉後主志は、黄崇 · 李球とともに張遵が死力を尽くして戦い命を落としたと記します。
史書に残っているのはこれだけです。関興と兄弟の契りを結び、夷陵や北伐で戦う張苞は、すべて演義が創作した物語です。
長子苞,早夭。次子紹嗣,官至侍中尙書僕射苞子遵爲尙書,隨諸葛瞻於緜竹,與鄧艾戰,死『三国演義』 第81~85回 · 第87回 · 第91~99回
演義で張苞が初めて登場するのは第81回です。范彊 · 張達が張飛を殺してその首を持って東呉へ逃げると、白い袍に銀の鎧をまとった若い将の張苞が駆けつけ、劉備の前にひれ伏して泣きます。劉備が彼に先鋒の印を与えようとすると関興が進み出て争い、張苞は百歩先に立てた旗の赤い点に矢を三本とも命中させ、関興は飛んでいく雁の群れの三羽目を射落とします。怒った張苞が父の使っていた丈八点鋼矛を手に勝負しようと言い、関興も家伝の大刀を手に進み出ると、劉備が叱って止め、張苞が一歳年上だというので関興に彼を兄として仕えさせます。二人は幕舎の前で矢を折って互いに守り合うと誓い、先鋒は呉班が務め、二人は劉備を護衛します。
第82回で張苞は孫桓と戦い、李異と渡り合っている最中に馬が矢を受けて倒れ、関興が李異を斬って彼を救います。翌日、彼は謝旌を槍で突き殺し、崔禹を生け捕りにします。第83回で韓当の部将夏恂を槍で突き落とすと、劉備は虎の父に犬の子はないと喜び、呉が和睦を求めて范彊 · 張達を縛り張飛の首とともに送ってくると、張苞は父の霊位の前で二人を自ら切り刻んで祭ります。第84回の陸遜の火攻めの中では劉備を救って馬鞍山へ導きます。
第91回の北伐では右護衛使 · 虎翼将軍として諸葛亮に従い、第92回では包囲された趙雲を救いに飛び込んで魏の将薛則を斬ります。その後も関興とともに数々の戦いに出ますが、第99回で武都 · 陰平を救いに来た郭淮と孫礼を追う途中、馬もろとも谷に落ちて頭を負傷します。成都へ送られて療養していた彼が死んだという知らせに、諸葛亮は声をあげて泣き、血を吐いて倒れ病床に伏します。演義で張苞が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 張飛 · 弟 張紹 · 姉妹 二人(敬哀皇后 · 張皇后) · 子 張遵
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
父の丈八蛇矛だ!
燕人張飛の子だ!丈八蛇矛を受けよ!
父上ほどの声は出ずとも、槍は似ておる。
父上なら一喝で終わらせたであろうに。
関興には負けられぬ。
張家の槍は代を継ぐ。
父上、それがし、さらに精進いたします。
また一歩、仇討ちに近づきました!
…危うく落馬するところだった。
落馬したことが…無念だ。