字 寿成 · 不詳 ~ 212年 · 司隷右扶風茂陵県 · 一勢力の主
子の馬超の反乱で一族皆殺しにされた悲運の西涼の群雄
出典 · 『三国志』蜀書馬超伝と裴松之注の『典略』 · 魏書董卓伝 · 鍾繇伝と裴松之注の司馬彪『戦略』 · 張既伝と裴松之注の『魏略』 · 龐徳伝 · 武帝紀 · 『後漢書』董卓伝と李賢注の『典略』 · 『献帝伝』 · 献帝紀
馬騰は字を寿成といい、右扶風茂陵の人で、後漢の伏波将軍馬援の子孫です。『三国志』には自身の伝がなく、子の馬超の伝とその裴松之注に事績が残っています。馬超伝の裴松之注に引かれた『典略』によれば、父(字は子碩)は桓帝のとき天水蘭干の県尉でしたが、官を失って隴西にとどまり羌族と入り混じって暮らし、家が貧しく妻がいなかったため羌族の女を娶って馬騰を生みました。『後漢書』董卓伝の李賢注に引かれた『献帝伝』は、父の名を馬平と記します。馬騰は若いころ貧しくて財産がなく、いつも彰山で木を伐って背負い、町へ売りに行って暮らしを立てていました。身の丈八尺余りで体格が大きく、顔立ちと鼻が人並みはずれていましたが、性格は温厚で寛大であったため、多くの人に敬われました。
『典略』によれば、霊帝の末に涼州刺史耿鄙が奸悪な小役人を信任すると、民の王国らと氐族 · 羌族が反乱を起こしました。州と郡が勇敢な民を募って討伐したとき、馬騰もその中にいました。州と郡は彼を非凡と見て軍従事とし兵を率いさせ、賊を討って功を立てて軍司馬となり、偏将軍を経て征西将軍に昇り、汧 · 隴の間に駐屯しました。しかし『後漢書』董卓伝は、中平4年(187)に韓遂らが耿鄙を殺すと、耿鄙の司馬であった馬騰も兵を擁して反乱し、韓遂 · 王国と合流して三輔を荒らしたと記しており、記録が分かれます。
初平3年(192)、馬騰は韓遂とともに長安に来て降伏し、征西将軍となって郿に駐屯しました。興平元年(194)、李傕に私的に頼んだことが聞き入れられず怒った馬騰は、侍中馬宇 · 右中郎将劉範 · 前涼州刺史种劭らと手を結んで李傕を攻めましたが、謀が漏れ、長平観の下で李傕の甥李利と郭汜 · 樊稠に大敗して1万余人を失い、涼州へ帰りました。
『典略』によれば、その後馬騰は鎮西将軍韓遂と異姓の兄弟の契りを結び、はじめはきわめて親密でしたが、部曲同士が互いに侵し合ううちに仇敵となりました。馬騰が韓遂を攻めると韓遂は逃げましたが、兵を集めて引き返し、馬騰の妻子を殺しました。建安の初め、朝廷は司隷校尉鍾繇と涼州牧韋端を遣わして二人を和解させ、馬騰を槐里に駐屯させて前将軍とし、槐里侯に封じました。馬騰は北は胡族の侵入を、東は白騎の一党を防ぎ、士を礼遇し賢者を推挙して民の命を大切にしたので、三輔はたいへん安らいで彼を慕いました。鍾繇伝は、鍾繇が馬騰 · 韓遂に書状を送って禍福を説くと、二人がそれぞれ子を朝廷に入れたと記します。
袁紹が死んだのち、袁尚が置いた河東太守郭援が匈奴の単于とともに河東を狙い、関中の諸将と手を結ぼうとすると、鍾繇は張既を遣わして馬騰を説得しました。司馬彪の『戦略』によれば、馬騰ははじめひそかに袁氏の側につくことを承知しましたが、傅幹が曹公は天子を奉じているので道に従う側だと諭すと、恐れてその言葉に従いました。馬騰は子の馬超に精兵一万余りと韓遂の兵まで率いさせ、鍾繇とともに郭援を破りました。龐徳伝は、のちに馬騰が弘農で反乱した張白騎も破ったと記します。
曹操が荊州を攻めようとしたとき(208)、馬騰らが関中を分け合って占めていたので、曹操はふたたび張既を遣わし、部曲を手放して朝廷に戻るよう告げました。馬騰は承知しながらもためらいましたが、張既が諸県に物資を備えさせ、二千石の官吏たちに郊外まで出迎えさせると、やむなく東へ発ちました。曹操は上表して馬騰を衛尉とし、子の馬超を将軍としてその軍勢を率いさせました。『典略』によれば、馬騰は自ら老いたと考えて宮殿を守る職に入り、子の馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉となって一家はみな鄴に移り、馬超だけが残りました。
建安16年(211)、馬超が韓遂ら関中の諸将とともに曹操に反旗を翻すと、翌年(212)5月、朝廷は衛尉馬騰を斬り、三族を滅ぼしました。馬超はのちに劉備に奉った上書で「臣の一門二百余人は曹操にほとんど殺されました」と述べています。
北備胡寇,東備白騎,待士進賢,矜救民命,三輔甚安愛之騰為人長八尺餘,身體洪大,面鼻雄異,而性賢厚,人多敬之『三国演義』 第5回 · 第10回 · 第20~21回 · 第57回
演義で馬騰が初めて登場するのは第5回で、董卓を討つために集まった十八諸侯のうち十三番目の西涼太守としてです。第10回では并州刺史韓遂とともに兵10万余りを率いて李傕 · 郭汜を討つため長安へ向かい、内応を約した馬宇 · 劉範 · 种劭の取り計らいで献帝の密詔を受けて征西将軍となります。17歳の子馬超が王方を突き殺し李蒙を生け捕りにしますが、二か月もたたずに兵糧が尽き、内応が露見して兵を退きます。
第20回では、都に来ていた馬騰は病を口実に会おうとしない董承を訪ねて詰め寄り、董承が示した献帝の血書の密詔を読むと唇を噛んで口いっぱいに血をにじませます。酒を掲げて血で誓い義状に名を記し、第21回ではともに事を起こす者として劉備を挙げ、狩り場で関羽が曹操を斬ろうとしたとき劉備が目配せで止めたことを挙げて、その胸の内を推し量ります。義状に六番目に名を連ねた彼は、辺境の急報を受けて西涼へ帰ります。
第57回で曹操は荀攸の策により、馬騰を征南将軍に任ずるという詔を下して召し出します。演義はここで、彼が伏波将軍馬援の子孫で、羌族の母から生まれたと紹介します。馬騰は長男の馬超に西涼を守らせ、馬休 · 馬鉄と甥の馬岱を連れて許昌へ向かいます。軍をねぎらいに来た侍郎黄奎が曹操を憎む胸の内を打ち明けると、二人は城外で閲兵に出てくる曹操を斬ることにします。しかし黄奎の妾李春香と通じていた苗沢がこれを曹操に密告し、馬騰は曹洪 · 許褚 · 夏侯淵 · 徐晃に包囲されます。馬鉄は矢に当たって死に、馬騰と馬休は捕らえられ、馬騰は「青二才の儒者めがわが大事をしくじらせた」と最後まで罵り続けて黄奎とともに処刑されます。後方で軍に従っていた馬岱だけが商人の身なりで逃れます。演義で馬騰が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
父 馬平 · 子 馬超 · 馬休 · 馬鉄 · 馬超の従弟 馬岱
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
西涼の馬寿成だ。
西涼の馬寿成である。漢室を忘れてはおらぬ。
辺境の者の言葉と侮るでない。
…許都は遠いな。
息子たちを残してきたのが気にかかる。
遠き地にも漢の臣はおるのだ。
…超よ、父を許せ。
西涼の名にかけて勝ったぞ。
…超に後を託さねばならぬか。
…超よ、父の仇を討て。