字 彥偉 · 不詳 ~ 260年 · 冀州清河国 · 曹操配下
曹髦を諫めたが司馬昭に告げず、母とともに死んだ魏の尚書
出典 · 『三国志』魏書夏侯玄伝末尾の許允の段に付された数行と裴松之注の『世語』 · 『漢晋春秋』 · 三少帝紀と注の『漢晋春秋』 · 『世語』 · 『晋諸公賛』 · 陳泰伝 · 管輅伝と注の『管輅別伝』 · 崔林伝注の『晋諸公賛』 · 鄧艾伝 · 蜀書姜維伝 · 張翼伝 · 『晋書』文帝紀 · 向雄伝 · 『世説新語』賢媛
王経は字を彦偉といい、清河の人です。『三国志』は彼の事績を魏書夏侯玄伝の末尾、許允の段の後に数行付しただけで、残りは裴松之注が引く『世語』 · 『漢晋春秋』 · 『晋諸公賛』と陳泰伝 · 管輅伝が伝えます。本文は、清河の王経も許允とともに冀州の名士と称されたと記します。『世説新語』は彼が若いころ貧しく苦労したと言い、崔林伝注の『晋諸公賛』は、同郡の崔林が庶民の中から彼を見出し、ついに名士となったと伝えます。
管輅伝によれば、官を辞して家にいた王経は、怪しいことがあったと言って管輅に占いを頼み、管輅は吉の卦で官職が移る兆しだと言いました。まもなく王経は江夏太守となりました。『世語』は、大将軍曹爽が絹二十匹を託して呉と交易させようとすると、王経はその書状を開きもせず官を捨てて帰ったと記します。母は、兵を預かる身で勝手に去ったとして、送ってきた役人の前で彼を杖で五十回打ち、これを聞いた曹爽はそれ以上罪を問いませんでした。本文は、彼が郡守となったとき、母が「お前は農家の子なのに、いまや二千石に至った。物事が過ぎれば不吉だから、もう止めてよい」と言い聞かせたが、従わなかったと記します。
王経は二州の刺史と司隷校尉を歴任しました。正元2年(255)雍州刺史だった彼は、征西将軍陳泰に、姜維と夏侯覇が祁山 · 石営 · 金城の三方から出ようとしていると知らせました。陳泰は、敵が三方から来ることはできまいと見て、狄道へ進んで留まり、援軍が着いたらともに討てと命じました。しかし王経の率いる軍が故関で戦って不利になると、彼はすぐに洮水を渡り、姜維と戦って大敗し、一万余人だけを率いて狄道城に戻って守りました。陳泰は、王経は高い城壁に拠って敵の鋭気を挫くべきだったのに、かえって野で迎え撃ったと言いました。姜維が狄道を包囲すると、陳泰は夜に高い山に登って烽火を多く上げ、太鼓と角笛を鳴らし、姜維は退きました。解放された王経は「兵糧は十日ももたない状況だった。時宜を得て来なければ、城中が皆殺しにされ、一州を失っていただろう」と嘆きました。
『世語』によれば、司隷校尉だったとき、彼は河内の向雄を都官従事に招きました。『晋書』向雄伝は、向雄が初め郡の主簿として太守王経に仕えたと記しており、『世語』と異なります。甘露年間に王経は尚書となりました。
甘露5年(260)5月、皇帝曹髦は侍中王沈、尚書王経、散騎常侍王業を呼び、「司馬昭の心は道行く人も知っている」として今日ともに出て討つと言いました。『漢晋春秋』によれば、王経は、昔魯の昭公が季氏に耐えられず、敗れて逃げ国を失って天下の笑い者になったとして、宿衛は手薄で兵は弱く、病を除こうとしてかえって重くしてしまうのを恐れると諫めました。曹髦は懐から版を取り出して投げつけ、意志を曲げず、王沈と王業は司馬昭のもとへ駆けつけて知らせました。『世語』は王経が正直であったので出て行かなかったと言い、『晋諸公賛』は、二人が出る際に呼ぶと彼は従わず、「貴公らは行かれよ」と言ったと伝えます。曹髦が死んだのち、太后の令は王経とその家族を廷尉に引き渡させ、『晋書』文帝紀は、彼が二心を抱いたとして殺したと記します。
『漢晋春秋』によれば、捕らえられて別れを告げる王経に、母は顔色も変えず笑って「人は誰でも死ぬものだ。お前を止めなかったのは、死に所を得られないことを恐れたからだ。このことでともに命を捧げるのだから、何の恨みがあろうか」と言いました。『世説新語』は、王経が泣いて、母の言いつけに従わなかったために今日に至ったと言うと、母が、子としては孝、臣としては忠を尽くしたのだから何に背いたのかと言ったと、少し異なって記します。王経は東市で処刑され、母もともに死にました。向雄が哭すると市中の人々が皆悲しみ、雍州の故吏皇甫晏が私財で二人を引き取って葬りました。晋の武帝は泰始元年(265)の詔で、彼は法に触れて死んだが守った志は称えるに値するとして、その孫を郎中としました。
人誰不死?往所以不止汝者,恐不得其所也。以此并命,何恨之有哉?昔魯昭公不忍季氏,敗走失國,為天下笑。今權在其門,為日乆矣『三国演義』 第110~111回 · 第114回
演義で王経は第110回に雍州刺史として初めて登場します。姜維が兵5万で洮水に至ると、王経は馬歩兵7万を起こして迎え撃ち、陣頭に出て、魏 · 呉 · 蜀はすでに鼎の足のように並び立っているのに、なぜたびたび攻め込んでくるのかと詰問します。姜維が洮水を背に陣を敷いたのを見た王経は、敗れれば水に溺れるだろうと言って張明 · 花永 · 劉達 · 朱芳の四将を出します。姜維は数合で逃げるふりをして水辺で向き直り、張翼と夏侯覇が背後を断つと魏軍は大いに崩れ、洮水に溺れた者は数知れず、首を斬られた者は一万を超えます。王経は騎兵百余人だけを率いて狄道城へ逃げ込み、門を閉ざして守ります。姜維が狄道を包囲すると、陳泰と鄧艾が援軍を率いて来て、山あいに隠しておいた旗と太鼓を鳴らし、姜維は退きます。第111回で王経は陳泰と鄧艾を城に迎え入れ、包囲を解いてくれたことに感謝して宴を開きます。
第114回で曹髦は、司馬昭が簒逆の心を抱いているとして王沈 · 王経 · 王業を呼び、ともに討とうと言います。王経は魯の昭公の故事を挙げ、権勢が司馬氏に帰して久しく、宿衛も弱いので、耐えてゆっくり図るよう諫めます。王沈と王業が司馬昭のもとへ行って先に知らせ、死を免れようと言うと、王経は大いに怒り、「主君が憂えれば臣は辱められ、主君が辱められれば臣は死ぬものなのに、どうして二心を抱けようか」と言って従いません。曹髦が輦に乗ると、王経はその前にひれ伏して泣き、羊を追って虎の口に入れるようなものだと止めますが、曹髦は聞き入れません。曹髦が成済の戟に刺されて死ぬと、後を追ってきた王経は賈充を逆賊と大いに罵り、縛り上げられます。
司馬昭は王経の一家をことごとく獄に入れます。廷尉の庭で縛られて連れてこられた母を見た王経が、頭を地に打ちつけ、不孝の子が母まで巻き込んだと泣くと、母は大いに笑って、人は誰が死なずにいられようか、ただ死に所を得られぬことを恐れていただけで、このことで命を捨てるのに何の恨みがあろうかと言います。翌日、王経の一家はみな東市へ引き立てられ、王経母子は笑みを含んで刑を受け、城中の人々はみな涙を流します。同じ回で鄧艾の参軍王瓘は王経の甥と偽って姜維に偽りの降伏をしますが、姜維は、司馬昭が王経の三族を滅ぼしたのに甥を関外に置いて兵を預けるはずがないとして、その計略を見抜きます。演義で王経の名が出るのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
母(ともに死す) · 孫(晋の武帝が郎中とする)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
雍州刺史王経である。狄道を守り抜こう。
雍州を預かる王経だ。この地は一寸たりとも渡せぬ。
直言は耳に逆らえど薬となる。そなたの言葉はどうか?
…兵糧は十日ともたぬか。援軍はまだか。
貴公らは行かれよ。わしはついて行かぬ。
城壁に拠って勢いを挫けば、かように勝てるのだな。
野で迎え撃ったのが禍のもとであった。陳泰の言うとおりであった。
洮水をうかがっていた軍は退いた。城は無事だ。
狄道へ退いて城門を閉ざせ。援軍を待つのだ。
母上、ついに死に所を得ました。