字 不詳 · 不詳 ~ 不詳 · 不詳 · 呂布配下
連環の計で董卓と呂布を仲違いさせた、三国志随一の絶世の美女
出典 · 『三国志』魏書 呂布伝 · 董卓伝 · 呉書 韋曜伝 · 裴松之注の『英雄記』 · 『魏氏春秋』 · 『後漢書』呂布伝 · 王允伝
貂蝉という人物は史書に登場しません。『三国志』と裴松之注、『後漢書』の呂布伝 · 董卓伝 · 王允伝のどこにも貂蝉はいません。『三国志』に「貂蝉」という二文字が一度出てくることはありますが、呉書 韋曜伝で華覈が天子のそばに仕えた韋曜について用いた言葉であり、人の名ではありません。
演義の貂蝉と重なって見える記録は呂布伝にあります。『三国志』呂布伝は、董卓がささいなことで腹を立てて手戟を抜いて呂布に投げつけ、呂布は素早くかわしてから謝罪したものの、このことで内心董卓を恨んだと記します。続いて、董卓は常に呂布に奥の門を守らせていましたが、呂布は董卓の侍女とひそかに通じ、事が露見するのを恐れて心が落ち着かなかったといいます。『後漢書』呂布伝も、呂布が侍女とひそかに通じてますます不安になったと記します。どちらの書もこの侍女の名を記しておらず、その後どうなったかも残していません。
王允が呂布を引き入れたことは両書ともに記しています。『三国志』呂布伝によれば、司徒の王允は呂布が同じ州の出身で勇猛であることから手厚く遇してきており、呂布が訪ねてきて董卓に殺されかけたことを打ち明けると、僕射の士孫瑞とともに練っていた計画を告げて内応させました。呂布が「父子の間柄なのにどうすればよいのか」と言うと、王允は「君の姓は呂であり、もとより骨肉ではない」と答え、『後漢書』は「戟を投げつけたとき、どこに父子の情があったのか」という言葉を書き加えています。初平3年(192)4月、呂布は董卓を刺し殺しました。これらの記録のどこにも、王允が女性を立てて二人の仲を裂いたという話はありません。
卓常使布守中閤,布與卓侍婢私通,恐事發覺,心不自安。而私與傅婢情通,益不自安。因往見司徒王允,自陳卓幾見殺之狀『三国演義』 第8~9回 · 第16回 · 第19回
演義で貂蝉が初めて登場するのは第8回です。董卓が宴の席で司空張温の首を盆に載せて運び込ませると、屋敷に帰った司徒の王允は落ち着いて座っていられず、夜が更けると杖をついて裏庭に出て、天を仰いで涙を流します。そのとき牡丹亭のほとりから長いため息が聞こえ、ひそかにうかがうと屋敷の歌妓の貂蝉でした。演義は、貂蝉が幼くして選ばれて屋敷に入り歌と舞を習い、十六歳で容貌も才芸も抜きん出ていたので、王允が実の娘のように遇していたと紹介します。王允が私情を抱いているのかと叱ると、貂蝉は、養っていただいた恩は身を粉にしても返しきれないのに、近ごろ大人の眉に憂いが浮かんでいるのでため息をついただけだと言い、お役に立つことがあれば万死も辞さないと答えます。
王允は「漢の天下がそなたの手の中にあろうとは誰が思っただろう」と言って貂蝉を画閣へ連れて行き、頭を下げて連環の計を打ち明けます。まず貂蝉を呂布に与えると約束し、のちに董卓に献じて、その間で父子を背かせ、呂布に董卓を殺させるという計略です。貂蝉は大義に報いられなければ万の刃の下で死ぬと誓います。王允が珠をはめ込んだ金冠を贈ると呂布が礼を言いに訪れ、王允は酒宴に貂蝉を呼び出して、呂布の妾として与えると約束します。数日後には董卓を招き、簾を垂らしたまま貂蝉の舞を見せ、歌を聞かせます。董卓が年を尋ね、笑って「まことに神仙の中の人じゃ」と言うと、王允は貂蝉を献じ、車に乗せて相府へ送ります。道で襟首をつかむ呂布には、太師が貂蝉を呂布に娶せるために連れて行ったのだと言い繕います。
その後、貂蝉は呂布が見るたびに涙を見せます。窓辺で髪を梳いていて池に映った呂布の影を見るとわざと眉をひそめて涙をぬぐい、病床の董卓の寝台の後ろで自分の胸と董卓を交互に指さして泣き、呂布の心を焦がします。これを見た董卓は呂布を叱りつけて追い出します。董卓が朝廷に出た隙に呂布が相府を訪れると、貂蝉は裏庭の鳳儀亭で会い、「司徒の実の娘ではありませんが、実の子のように扱ってくださいました」と言ったうえで、太師に邪な心を起こされ身を汚されたので、あなたの前で死にますと言って池に身を投げようとします。抱きとめる呂布に、貂蝉は、あなたがあの老賊をこれほど恐れるなら私は天を仰ぐ日がありませんとけしかけます。戻ってきた董卓は鳳儀亭の下の二人を見て、呂布の画戟を奪って投げつけますが、呂布がたたき落とし、追いかけた董卓は駆けつけた李儒とぶつかって倒れます。
第9回で李儒は、楚の荘王が冠の紐を切らせた宴の故事を引いて、貂蝉を呂布に与えるよう勧めます。董卓がなぜ呂布と通じたのかと問い詰めると、貂蝉は呂布が戟を持って追ってきたのだと言い繕い、呂布に与えようと探りを入れられると、壁の剣を抜いて自分の喉を突こうとし、これはきっと李儒の計略だと泣きます。董卓が勧めを退けると、李儒は「我らは皆、女の手にかかって死ぬことになろう」と嘆き、董卓は貂蝉を連れて郿塢へ去ります。車を見送ってため息をつく呂布を王允が屋敷へ連れて行ってけしかけると、呂布は腕を刺して血で誓います。禅譲を議するという詔を受けて郿塢を発つ董卓が、天子になったら貴妃に立てようと言うと、内情を知る貂蝉は喜ぶふりをして拝礼します。董卓が北掖門で死んだのち、呂布は郿塢へ行って真っ先に貂蝉を連れ出します。
演義はその後、貂蝉がどのように呂布に付き従ったかを記さず、第16回で再び名を出します。呂布には妻が二人と妾が一人おり、まず厳氏を正室に迎え、のちに貂蝉を妾に迎え、小沛にいたときに曹豹の娘を第二夫人に迎えたといいます。曹氏は子のないまま先に死に、貂蝉にも子がなく、厳氏だけが娘を一人産みました。
第19回で曹操が下邳を包囲すると、陳宮は呂布に、城外に出て陣を張るか、曹操軍の糧道を断つよう勧めます。妻の厳氏が泣いて止めたためにためらった呂布が貂蝉のもとへ行って話すと、貂蝉は、将軍には私を守っていただかねばならないので、軽々しく単身で出て行かないでくださいと言います。呂布は画戟と赤兎馬があるのに誰が近づけようかとなだめながらも、結局は出陣せず、一日中厳氏 · 貂蝉と酒を飲んで憂さを晴らします。演義で貂蝉が名前で登場するのはここまでです。呂布が白門楼で死んだのち、貂蝉がどうなったかを演義は記しません。第20回に曹操が呂布の妻と娘を許都へ連れて行ったという一節がありますが、そこにも貂蝉の名はありません。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
養父:王允(演義の設定)
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
わらわが参ります。
わらわの言葉が重く届きますように。
女の言葉と侮らないでくださいませ。
…この身に何の力がございましょう。
涙だけでは叶わぬこともあるのですね。
国のためとあらば、何でもいたします。
…思うようにはまいりませぬ。
わらわの願いが叶いました。
…わらわの力が足りませんでした。
連環の計は成りました。