字 不詳 · 不詳 ~ 不詳 (198年以後) · 不詳 · 呂布配下
禁酒令を破ったと叱られて恐れ、陳宮を縛って曹操に降った将
出典 · 『三国志』魏書呂布伝と裴松之注の『九州春秋』 · 『後漢書』呂布伝
侯成は呂布の騎兵の将です。字や出身地、生没年は伝わっていません。『三国志』呂布伝に名が一度出てくるほか、裴松之注に引かれた『九州春秋』と『後漢書』呂布伝が、彼が呂布のもとを離れたいきさつを伝えています。
『九州春秋』によれば、侯成は食客に馬15頭を飼わせていましたが、その食客が馬をすべて連れて小沛へ行き、劉備に身を寄せようとしました。侯成がみずから騎兵を率いて追いかけ、馬をすべて取り戻すと、諸将は贈り物を持ち寄って祝いました。侯成は酒を五、六斛醸し、狩りで豚を十数頭獲りましたが、飲み食いする前に、まず豚半頭と酒五斗を携えて呂布の前に進み、ひざまずいて献上しました。呂布は大いに怒り、「わしは酒を禁じたのに、そなたは酒を醸した。諸将とともに飲み食いして兄弟となり、わしを殺そうというのか」と叱りつけました。ひどく恐れた侯成は、醸した酒を捨て、諸将の贈り物を返しました。このことで自ら疑心を抱き、曹操が下邳を包囲すると、手勢を率いて降伏しました。
『三国志』呂布伝は、曹操が下邳を包囲して三か月で上下の心が離れると、呂布の将の侯成 · 宋憲 · 魏続が陳宮を縛り、手勢を率いて降伏したと記しています。『後漢書』は馬を取り戻した件を城に水を引き入れたあとの出来事とし、叱責を受けた侯成が怒りかつ恐れて、諸将とともに陳宮と高順を捕らえて降伏したと記しています。
史書に残るのはこれだけです。降伏したあと侯成がどんな官職に就いたのか、いつどのように死んだのかは伝わっていません。
布禁酒,卿釀酒,諸將共飲食作兄弟,共謀殺布邪成大懼而去,棄所釀酒,還諸將禮。由是自疑,會太祖圍下邳,成遂領衆降『三国演義』 第11~12回 · 第18~19回
演義で侯成が初めて登場するのは第11回です。濮陽で呂布の傍らに並ぶ八健将のうち、張遼と臧覇がそれぞれ率いる六将の一人として名が挙がります。陳宮の進言に従って高順 · 魏続とともに西の陣営を守りに行き、陣営を奪った曹操を呂布とともに追撃します。第12回では濮陽城から先頭に立って打って出たものの典韋にかなわず城へ逃げ戻り、炎のなか南門から脱出しようとする曹操の行く手を高順とともに阻みますが、典韋が突破していきます。定陶では高順 · 張遼 · 臧覇とともに海辺へ兵糧の徴発に出ていました。第18回では郝萌 · 曹性とともに騎兵二百余りを率い、小沛を攻める高順を迎えに出ます。
第19回で下邳が水に浸かると、呂布は妻妾と酒ばかり飲んでいましたが、鏡に映る自分の顔がやつれたのを見て、城内で酒を飲めば斬るという令を出します。その頃、侯成は馬丁が盗んで劉備に献じようとした馬15頭を追って取り戻し、諸将が祝うと酒を五、六斛醸して、まず五瓶を呂布に献じます。呂布は禁酒令を破ったとして首を斬れと命じ、宋憲 · 魏続らがとりなすと棒打ち百回に減じ、さらにとりなされて五十回打ちます。訪ねてきた宋憲 · 魏続と裏切りを謀る際、侯成は「呂布が頼みとするのは赤兎馬だ。お二方が城門を開いて呂布を生け捕りにするなら、わしが先に馬を盗んで曹操のもとへ行こう」と言います。その夜、侯成は赤兎馬を盗み、魏続が開けた東門から駆け出して曹操の陣営に献じ、宋憲 · 魏続が白旗を合図に城門を開く手はずだと告げます。呂布が縛られたのち、白門楼で侯成は宋憲 · 魏続とともにその傍らに立ちます。演義で侯成が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
生きる道を探して来た。
酒を一壺醸しただけで杖五十だ。そんな話があるか?
薄情な主の下に残る理由はない。
…今度も付く側を誤ったか。
馬は乗り換えればそれまでよ。
赤兎馬も盗んだ身だ。これしきのこと。
逃げる馬でも用意しておくか。
生きる道を選んだまでだ。
…杖の代償がまだ残っておるか。
杖の代償は…払ったと思うことにする。