曹洪

字 子廉 · 不詳 ~ 232年 · 豫州沛国譙県 · 曹操配下

曹洪の肖像

滎陽で自らの馬を譲って曹操を救ったが、吝嗇ゆえ命を落としかけた従弟

能力値

統率79武力81知力44政治35魅力54

カード

攻撃力 5体力 4コスト 3価値 11職分 猛将
一撃 号令
ランダムな敵1体に自身の攻撃力分のダメージ(反撃なし)

正史

出典 · 『三国志』魏書 曹洪伝と裴松之注の『魏書』 · 『魏略』 · 魏書 武帝紀 · 荀彧伝裴松之注 · 荀攸伝 · 曹休伝 · 満寵伝 · 辛毗伝 · 楊阜伝 · 司馬芝伝 · 斉王紀

曹洪は字を子廉といい、曹操の従弟です。裴松之注に引く『魏書』は、伯父の曹鼎が尚書令となって曹洪を蘄春長に任じたと記しています。

初平元年(190)、曹操は義兵を挙げて董卓を討とうと西へ向かいましたが、滎陽で董卓の将の徐栄に敗れました。武帝紀は、曹操が流れ矢に当たり、乗っていた馬も傷ついたと記しています。曹操が馬を失い敵が激しく追ってくると、曹洪は馬から降りて自分の馬を曹操に与え、曹操が辞退すると「天下に曹洪はいなくともよいが、あなたはいなくてはなりません」と言いました。曹洪は徒歩で曹操に従って汴水に至り、水が深くて渡れないと、岸沿いに歩いて舟を探し、曹操とともに渡って譙へ帰りました。その後、かねて親しかった揚州刺史の陳温のもとへ家兵千余人を率いて赴き、廬江の精鋭の甲士2000と丹楊の兵数千を得て、竜亢で曹操と合流しました。

興平元年(194)、曹操が徐州を攻めている間に張邈が兗州で背いて呂布を迎え入れました。大飢饉の年でしたが、曹洪は兵を率いて先行し、東平と范を先に押さえて穀物を集め、本軍に供給しました。曹操が濮陽で張邈と呂布を攻めて呂布が逃げると、曹洪は東阿を拠点に済陰 · 山陽 · 中牟 · 陽武 · 京 · 密など十余県を奪い、これまでの功により鷹揚校尉を経て揚武中郎将となりました。建安元年(196)、曹操が天子を迎えようとしたとき、曹洪は兵を率いて西へ迎えに出ましたが、董承と袁術の将の萇奴が険所を塞いだため進めず、天子が許に都を置くと諫議大夫となりました。

建安2年(197)、南陽と章陵の諸県が再び張繍の側に寝返ると、曹操は曹洪に討たせましたが勝てず、曹洪は葉に駐屯して張繍と劉表にたびたび攻め込まれました。その後、別に劉表を討ち、舞陽 · 陰葉 · 堵陽 · 博望で劉表の別将を破った功により厲鋒将軍となり、国明亭侯に封じられました。建安5年(200)、官渡で曹操が自ら烏巣の淳于瓊を討ちに行ったとき、曹洪は荀攸とともに本陣を守りました。袁紹の将の張郃と高覧が曹洪を攻めている最中に降ってくると、疑って受け入れまいとしましたが、荀攸の言葉に従って受け入れました。建安9年(204)には曹操が尹楷を討ちに行っている間に鄴を包囲して攻め、その後もたびたび戦いに従って都護将軍となりました。満寵伝は、満寵が許の県令であったとき、宗室の貴人である曹洪の賓客がたびたび法を犯したので、曹洪の頼みを聞かずに彼らを処刑したと記しています。

建安22年(217)、劉備が張飛 · 馬超 · 呉蘭らを下弁に駐屯させると、曹操は曹洪にこれを防がせました。曹操は曹休を騎都尉として曹洪の軍に参与させ、「お前は参軍だが、実は将なのだ」と言い、曹洪もこの言葉を聞いて軍事を曹休に任せました。張飛が固山に駐屯して退路を断とうとするとみな迷いましたが、曹休がまず呉蘭を討つよう進言し、曹洪がそれに従って呉蘭を大破すると、張飛は退きました。武帝紀は、翌年曹洪が呉蘭を破ってその将の任夔らを斬り、呉蘭は陰平の氐族強端に首を斬られたと記しています。辛毗伝によれば、曹操は辛毗と曹休を曹洪の軍に参与させ、「昔、高祖は財貨をむさぼり女色を好んだが、張良と陳平がその過ちを正した」と諭しました。楊阜伝は、この戦いのあとの宴で曹洪が薄絹の衣を着せた女楽に太鼓を踏んで舞わせると、武都太守の楊阜が厳しく叱責し、曹洪はすぐに女楽をやめさせたと記しています。

曹洪は家が裕福でしたが、性格はけちでした。裴松之注に引く『魏略』は、曹操が司空であったころ県ごとに財産を査定させたところ、譙の県令が曹洪の財産を曹操の家と同じと評価したので、曹操が「わが家の財産がどうして子廉に及ぼうか」と言ったと記しています。曹丕は若いころ曹洪に借りようとしたものを借りられなかったことで常に彼を恨んでおり、『魏略』は、東宮時代に絹百匹を借りようとしたが曹洪が思いどおりにしてくれなかったと記しています。

曹丕が即位すると、曹洪は衛将軍を経て驃騎将軍 · 特進となり、野王侯に封じられて封邑は2100戸に達し、のちに都陽侯に移封されました。しかし食客が法を犯すと、曹丕は曹洪を獄に下して死罪に処そうとしました。群臣がこぞって救おうとしましたが誰も果たせずにいると、卞太后は郭皇后に「曹洪が今日死ねば、わたしは明日、皇帝に命じて皇后を廃させます」と言い、郭皇后が泣いて何度も頼んだので、曹洪は免官され爵位と封土を削られるだけで済みました。『魏略』は、側にいた曹真も彼の赦免を願い、卞太后が曹丕を叱って「梁と沛の間で子廉がいなければ、今日はなかった」と言ったと記しています。『魏略』によれば、没収された財産も太后が再び口添えしてのちに返され、曹洪は死を覚悟していたところを許されると、「生まれつき足るを知る分別がなく、豺狼のように飽くことのない性分を持っておりました」と罪を詫びる文を奉りました。陳寿は、曹洪が先帝の功臣であったため、当時の人々はこの件を大いに残念がったと記しています。

黄初7年(226)に明帝が即位すると、曹洪は後将軍 · 特進となって楽城侯に再び封じられ、さらに驃騎将軍に昇りました。司馬芝伝は、このころ特進曹洪の乳母が禁じられた祭祀に関わって獄に下されると、卞太后が黄門を遣わして救おうとしましたが、河南尹の司馬芝がこれを取り次がずに刑を執行したと記しています。太和6年(232)に曹洪が死去すると、諡は恭侯とされ、子の曹馥が跡を継ぎました。それより先、曹操は曹洪の封邑を分けて子の曹震を列侯としていました。この曹震は大司馬の曹真とは別人です。娘は荀彧の子の荀粲に嫁ぎました。正始4年(243)、曹洪は太祖の廟庭に配享されました。陳寿は、夏侯氏と曹氏の親族がその時代に重用され、側近として功業を助けたとして、曹洪を曹仁 · 曹休らとともに評しました。

故惇、淵、仁、洪、休、尚、真等並以親舊肺腑,貴重於時,左右勳業,咸有効勞
夏侯惇 · 夏侯淵 · 曹仁 · 曹洪 · 曹休 · 夏侯尚 · 曹真らは近親としてその時代に重用され、側近として功業を助け、みな功を立てた『三国志』魏書 諸夏侯曹伝 評
天下可無洪,不可無君
天下に曹洪はいなくともよいが、あなたはいなくてはならない『三国志』魏書 曹洪伝

三国志演義

『三国演義』 第5~80回

演義で曹洪は第5回に初めて登場します。曹操が義兵を挙げると、曹氏の兄弟である曹仁と曹洪がそれぞれ千余人を率いて駆けつけます。第6回の滎陽の戦いで、曹操の馬が槍に突かれて倒れ、曹操が二人の兵に捕らえられると、曹洪が駆けつけて二人を斬り、自分の馬を差し出して「天下に曹洪はいなくともよいが、公はいなくてはならない」と言います。曹洪は鎧を脱ぎ刀を引きずって馬の後ろを歩いて従い、大河に阻まれると曹操を背負って川を渡ります。

その後、曹洪は曹操の戦いのたびに付き従います。第24回では董承らが死んだのち、曹操の命で御林軍3000を率いて宮中を見張り、第26回では汝南の劉辟 · 龔都と戦って何度も敗れ、第33回では南皮で袁譚と出くわし、刀で彼を斬ります。第40回では曹仁とともに先鋒となって新野で火に追われ、第51回では夷陵を守りますが甘寧に奪われます。第56回の銅雀台の弓比べでは、曹休 · 文聘に続いて的の真ん中を射抜きます。

第58回、曹操は曹洪と徐晃に十日間潼関を守るよう命じ、曹仁は曹洪が短気だと案じます。馬超の兵が毎日曹操の三代を罵ると、曹洪は徐晃の言葉を聞かずに関を下りて戦い、九日目に潼関を失います。曹操は彼を斬れと命じますが、多くの官の願いで取り下げます。しかし髭を切って逃げる曹操が馬超に追われたとき、曹洪が立ちはだかって馬超と四、五十合を戦い救い出すと、曹操は、曹洪を殺していたら今日は馬超の手にかかって死んでいただろうと言って褒美を与えます。第59回では曹操の策どおり韓遂に近づいて訳の分からない言葉をかけ、馬超と韓遂の仲を裂きます。

第69~71回では漢中へ赴き、下弁で呉蘭の先鋒任夔を斬りますが、管輅の予言を恐れて退き、瓦口関を失って戻った張郃を斬ろうとして郭淮の言葉で思いとどまります。第78回では病床の曹操から後事を託される臣の一人となり、第80回では曹休とともに剣を帯びて宮中に入り、献帝に玉璽を差し出すよう迫り、これを叱りつけた符宝郎の祖弼を斬らせます。演義で曹洪が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 190滎陽の汴水で馬を失った曹操に自分の馬を差し出し、徒歩で従って舟を探し、ともに渡りました。
  2. 190揚州刺史の陳温のもとへ赴いて廬江と丹楊の兵を集め、竜亢で曹操と合流しました。
  3. 194張邈が兗州で背くと東平と范を先に押さえ、穀物を集めて本軍に供給しました。
  4. 195東阿を拠点に済陰 · 山陽など十余県を奪い、鷹揚校尉となりました。
  5. 196天子を迎えに西へ向かいましたが董承らに阻まれ、天子が許に都を置くと諫議大夫となりました。
  6. 197張繍に寝返った南陽の諸県を攻めましたが勝てず、葉に駐屯しました。
  7. 200官渡で曹操が烏巣を攻めたとき本陣を守り、荀攸の言葉に従って張郃 · 高覧の降伏を受け入れました。
  8. 204曹操が尹楷を討ちに行っている間に鄴を包囲して攻めました。
  9. 217都護将軍として、下弁に駐屯した張飛 · 馬超 · 呉蘭を防ぎに出ました。
  10. 218曹休の言葉に従って下弁で呉蘭を大破し、その将の任夔らを斬りました。
  11. 220曹丕が即位すると衛将軍を経て驃騎将軍となり、野王侯に封じられました。
  12. 226明帝が即位すると後将軍 · 楽城侯となり、再び驃騎将軍に昇りました。
  13. 232太和6年に死去し、恭侯と諡されました。
  14. 243正始4年、太祖の廟庭に配享されました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

伯父 曹鼎 · 子 曹馥 · 曹震(大司馬曹真とは別人) · 娘(荀粲の妻) · 従兄 曹操

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

沛国の曹子廉だ!

口を開くとき

わが馬を差し出したあの日のように、今日も負けぬ。

言い返すとき

財は惜しんでも、言葉は惜しまぬ。

言葉に詰まって

…損な商いは嫌なのだがな。

言葉に詰まって

元手が惜しくなってきた。

舌戦に勝って

天下に曹洪なくとも、公なかるべからず。

舌戦に敗れて

この借りは利子なしで返そう。

勝ったあと

滎陽の借りは返したぞ!

敗れたあと

…また馬でも差し出しましょう。

倒れるとき

滎陽で差し出した馬が役に立った。

同じ旗の下

曹操夏侯淵夏侯惇徐晃郝昭許褚曹仁典韋文鴦于禁楽進曹真