陶謙

字 恭祖 · 132年 ~ 194年 · 揚州丹楊郡丹楊県 · 一勢力の主

陶謙の肖像

曹操の侵攻に苦しみ、死に際に徐州を劉備に託せと遺した徐州牧

能力値

統率51武力33知力63政治64魅力77

カード

攻撃力 3体力 3コスト 2価値 7職分 君主
厚徳 属性
局面終了ごとに最も傷ついた味方1体の体力+1

正史

出典 · 『三国志』魏書 陶謙伝と裴松之注の『呉書』 · 武帝紀と裴松之注の『世語』 · 『呉書』 · 先主伝 · 陳登伝注の『先賢行状』 · 呉書 孫策伝 · 呂範伝 · 『後漢書』陶謙伝 · 朱儁伝

陶謙は字を恭祖といい、丹楊郡丹楊県の人です。裴松之注に引く『呉書』によれば、父は余姚県の長を務め、陶謙は幼くして父を亡くし、郷里では型にはまらない子として知られました。十四歳になっても布をつないで旗を作り、竹馬に乗って遊び、村の子どもたちはみな彼に従いましたが、道で彼を見かけた同郷の元蒼梧太守甘公が、その容貌を奇異に思って話をしたうえで娘を嫁がせることにしました。夫人が遊んでばかりいる子にどうして娘をやるのかと怒ると、甘公は「容貌が非凡であるから、長じれば必ず大成するだろう」と答えました。

陶謙は若くして学問を好んで儒生となり、州と郡で仕官したのち茂才に推挙されて盧県の令となりました。『呉書』は、彼が性格が剛直で大きな節操があったと記し、舒県の令であったとき、父の友で同郡の先輩である太守張磐に屈するのを恥じたと伝えています。張磐が酒席で無理に舞を求めると、舞いながらも体を回さず、わけを問われると「回れば人に勝つことになる」と答えて、仲がこじれたといいます。

その後、幽州刺史を経て議郎となり、中平2年(185)に車騎将軍張温の軍に参加して西へ韓遂を討ちました。『後漢書』は張温の司馬として辺章を討ったと記しています。『呉書』によれば、それより前に西羌が辺境を荒らしたとき、征西将軍皇甫嵩の要請で揚武都尉となり、ともに羌族を大破しました。また張温を軽んじて、多くの官僚が集まる酒席で彼を辱めたため辺境に追放されましたが、人々の勧めで再び呼び戻されても「わしは朝廷に謝罪するのであって、そなたに謝るのではない」と言い、張温は「恭祖の狂気はまだ治らぬのか」と言って酒席を設け、初めのように遇したといいます。

徐州で黄巾が起こると、陶謙は徐州刺史となって黄巾を討って大破し、『後漢書』はこれによって境内が安定したと記しています。董卓の乱の後、天子が長安にあって四方の道が途絶えると、陶謙は間道から使者を送って貢物を献上し、これによって安東将軍 · 徐州牧となり、溧陽侯に封じられました。『後漢書』朱儁伝によれば、彼は董卓と対立した朱儁に精兵3千を送り、董卓の死後に李傕 · 郭汜が長安を乱すと、諸豪傑とともに朱儁を太師に推戴して天子を迎えようという書を奉りました。このとき徐州は民が多く穀物が豊かで、流民が多く集まってきました。『先賢行状』によれば、世が荒れて民が飢えると陶謙は陳登を典農校尉とし、陳登は水路を開いて稲を豊かに収穫しました。

しかし陳寿は、陶謙が道理に背いて思うままに振る舞ったと記しています。徐州の名士趙昱は忠直であるがゆえに遠ざけられて広陵太守に出され、讒言する小人の曹宏らを近づけて信じたため、刑罰と政治が乱れ、善良な人々が害を受けて徐州は次第に乱れていきました。『後漢書』は、同郡の人笮融に広陵 · 下邳 · 彭城の兵糧輸送を任せたところ、笮融が三郡の物資を横取りして大きな寺を建てたと記しています。下邳の闕宣が天子を自称すると、陶謙は初め彼と手を結び、のちに彼を殺してその兵を併せました。その頃、袁術 · 公孫瓚と手を結んで発干に陣を敷いて袁紹に圧力をかけ、曹操と袁紹に破られたこともありました。『三国志』孫策伝は、徐州牧陶謙が江都にいた孫策をひどく警戒したので孫策が母を曲阿に移したと記し、呂範伝は、陶謙が孫策に従っていた呂範を袁術の間者とみなして拷問させたと記しています。

曹操の父曹嵩は難を避けて琅邪にいたところを陶謙によって害されましたが、この件は記録が分かれます。『後漢書』は、陶謙の別将が陰平を守っていて、その兵たちが曹嵩の財貨を欲しがって襲撃し殺したとし、裴松之注に引く『世語』は、陶謙がひそかに騎兵数千を送って捕らえさせたとし、『呉書』は、陶謙が付けた都尉張闓が騎兵2百で護送していて、泰山の華 · 費の間で曹嵩を殺して財貨を奪い、淮南へ逃げたと記しています。初平4年(193)、曹操が攻め込んで十数城を落とし、彭城で大いに戦うと、陶謙の軍は敗れて一万人以上が死に、泗水がそのために流れなくなりました。陶謙は郯に退いて守り、曹操は兵糧が足りずに帰りました。『後漢書』は、曹操が帰る途中で三つの県を屠って男女数十万人を殺し、鶏や犬さえ残さなかったと記しています。

『三国志』先主伝によれば、陶謙は青州刺史田楷に使者を送って危急を告げ、田楷と劉備がともに救援に来ました。陶謙は丹楊兵4千を劉備に加えてやり、彼を豫州刺史に推挙して小沛に駐屯させました。興平元年(194)、曹操が再び攻め込んで琅邪 · 東海の諸県を奪うと、陶謙は恐れて丹楊へ逃げようとしましたが、ちょうど張邈が背いて呂布を迎え入れたため、曹操は軍を返しました。その年、陶謙は病で死にました。病が重くなると別駕の糜竺に「劉備でなければこの州を安んじることはできない」と言い残し、陶謙が死ぬと糜竺が州の人々を率いて劉備を迎えました。

『呉書』によれば、陶謙は六十三歳で死に、張昭らが彼を悼む哀辞を作り、二人の子陶商と陶応は仕官しませんでした。陳寿は「陶謙は昏乱して憂いのうちに死んだ」と評し、范曄は「徐州が尽きて衰え果てたのは、実に陶謙が禍根であった」と記しました。

陶謙昏亂而憂死
陶謙は昏乱して憂いのうちに死んだ『三国志』魏書 二公孫陶四張伝 評
徐方殲耗,實謙為梗
徐州が尽きて衰え果てたのは、実に陶謙が禍根であった『後漢書』劉虞公孫瓚陶謙列伝 賛

三国志演義

『三国演義』 第5回 · 第10~12回

演義で陶謙は第5回に、董卓を討つ諸侯の第十二鎮である徐州刺史として初めて登場し、虎牢関へ向かう八路の諸侯に加わります。第10回で演義は彼を、人柄が温厚で純朴な徐州太守として紹介します。曹操と交わりを結びたかった陶謙は、琅邪から兗州へ向かう曹嵩一行が通りかかると境の外まで出迎えて二日間宴を催し、都尉張闓に兵5百を与えて護送させます。しかしもとは黄巾の残党だった張闓は、華 · 費の間の古寺で雨宿りしていた夜に曹嵩の一家をことごとく殺し、財貨を奪って淮南へ逃げます。「陶謙が兵を放ってわが父を殺した」と攻め込んだ曹操が民を殺し墓を暴くと、陶謙は天を仰いで「わしが天に罪を犯したゆえ、徐州の民がこのような災いに遭うのだ」と慟哭します。陣の前に出て張闓の仕業で自分のせいではないと明かしても曹操が罵るばかりなので、自ら身を縛って曹操の陣営に行き、民の命を救おうとします。

第11回で陶謙は糜竺の策により北海の孔融と青州の田楷に救援を求め、劉備が来るとその堂々とした風采を見て大いに喜び、その場で糜竺に徐州の牌印を持って来させて譲ろうとします。呂布が兗州を攻めて曹操が退くと、宴席で再び徐州を譲ろうとし、「そなたがわしを見捨てて去れば、死んでも目を閉じられぬ」と泣いて引き止め、劉備を小沛に留まらせます。第12回で六十三歳の陶謙は病が重くなると劉備を寝所に呼び、三度目に徐州の牌印を託し、二人の子陶商と陶応は才が足りないので州の事を任せるなと言い、孫乾を補佐に推挙したのち、手で胸を指して息を引き取ります。演義で陶謙が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 185車騎将軍張温の軍に参加し、西へ韓遂を討ちました。
  2. 192袁術 · 公孫瓚と手を結んで発干に陣を敷きましたが、曹操と袁紹に破られました。
  3. 192諸豪傑とともに朱儁を太師に推戴し、李傕らを討とうという書を奉りました。
  4. 193天子を自称した下邳の闕宣と手を結び、のちに彼を殺してその兵を併せました。
  5. 193攻め込んできた曹操に彭城で大敗し、郯に退いて守りました。
  6. 194救援に来た田楷 · 劉備に丹楊兵4千を与え、劉備を豫州刺史に推挙しました。徐州の救援
  7. 194再び攻め込んできた曹操に琅邪 · 東海を奪われ、丹楊へ逃げようとしました。
  8. 194病が重くなり、糜竺に劉備でなければこの州を安んじることはできないと言い残しました。徐州の主
  9. 194六十三歳で病没しました。徐州を託して逝く

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

父(余姚県の長) · 岳父 甘公 · 子 陶商 · 陶応

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

徐州を守ろうぞ。

口を開くとき

徐州は人心で治める地だ。

言い返すとき

老いぼれとて退くことしか知らぬわけではない。

言葉に詰まって

…徐州の民が目に浮かぶ。

言葉に詰まって

徳で持ちこたえてみせよう。

舌戦に勝って

人を見る目はあるのだ。

舌戦に敗れて

だから徐州を玄徳に任せたのだ。

勝ったあと

徐州はまだ無事だ。

敗れたあと

…玄徳に任せる時か。

倒れるとき

徐州は玄徳に任されよ。