字 不詳 · 不詳 ~ 263年頃 · 司隷河東郡解県 · 劉備配下
関統の跡を継ぎ、関羽の家の封爵を奉じた関興の庶子
出典 · 『三国志』蜀書 関羽伝と裴松之注の『蜀記』 · 魏書 龐徳伝 · 鍾会伝 · 蜀書 後主伝 · 後主太子伝
関彝は関羽の孫で、関興の庶子です。『三国志』関羽伝は彼を姓を付けず名の一字だけで記し、字や生年、没年は伝えていません。家はもともと河東解県の人です。
建安24年(219)に関羽が臨沮で死ぬと、子の関興が跡を継ぎました。関興は字を安国といい、若くからよい評判があって丞相諸葛亮がことのほか目をかけ、二十歳ごろ侍中 · 中監軍となりましたが、数年で死にました。その跡を継いだ関興の子関統は公主を娶って虎賁中郎将に至りましたが、子のないまま死に、そこで関興の庶子関彝が封爵を継ぎました。景耀3年(260)には祖父関羽に壮繆侯の諡が贈られました。
景耀6年(263)に魏の鍾会と鄧艾が蜀を攻め、その年の冬に後主が鄧艾に降って蜀が滅びました。鍾会伝は、鍾会が涪に至ると胡烈 · 田続 · 龐会らを送って姜維を追わせたと記します。関羽伝の裴松之注に引く『蜀記』は、龐徳の子龐会が鍾会 · 鄧艾に従って蜀を攻め、蜀が敗れると関氏一門をことごとく滅ぼしたと伝えます。
龐徳は建安24年に樊城で関羽と戦ってその額を矢で射当て、いつも白馬に乗っていたので関羽の軍は白馬将軍と呼んで恐れましたが、ついに捕らえられて関羽に殺された魏の将です。龐徳伝によれば、曹丕は龐会ら四人の子に関内侯の爵位を与え、龐会は父譲りの勇猛さで中尉将軍に至り、列侯に封じられました。
『蜀記』は死んだ者たちの名を挙げていないため、関彝がいつどのように死んだのかは分かりません。翌年正月に鍾会が成都で乱を起こしたときには、後主の太子も乱兵に殺されました。史書に残る関彝の事績はこれだけです。
卒,無子,以興庶子彝續封龐德子會,隨鍾、鄧伐蜀,蜀破,盡滅關氏家『三国演義』 第119回
演義で関彝は第119回にただ一度登場します。蜀が降伏したのち、鍾会は姜維と手を組んで成都で司馬昭に対抗しようとしますが、魏の将たちが蜂起して鍾会と姜維が死に、鄧艾も死にます。張翼らも乱兵の中で死に、続いて演義は、後主の太子劉璿と漢寿亭侯関彝がともに魏の兵に殺されたと記します。演義が彼を漢寿亭侯と呼ぶのは、祖父関羽が白馬で顔良を斬ったのち、曹操の上表によって受けた爵位の名です。
演義は関氏と龐氏の怨恨を前もってほのめかしておきます。第74回で龐徳は棺を先に立てて樊城へ出発する際、妻の李氏と子の龐会を呼び、この子は人並みならぬ相をしているから、長じれば必ずわが仇を討つであろうと言います。第116回では、蜀を攻めに出た鍾会の将たちの中に龐会の名が見えます。しかし、龐会が関氏一門を滅ぼす場面は演義にありません。演義で関彝が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
祖父 関羽 · 父 関興 · 兄弟 関統
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
関興が子、関彝だ。
関雲長の孫だ。祖父の名に泥を塗る言葉は吐かぬ。
封爵は受け継いだものだが、志はそれがしが守るものだ。
…父上がおられたら、こうも言葉に詰まりはせなんだものを。
祖父の名が重く、言葉が追いつかぬな。
関氏の言葉は、まだ折れてはおらぬ。
祖父の名の前に、恥じ入るばかりだ。
祖父の旗の下、恥じぬように戦ったぞ。
関氏の旗を、ここで降ろすわけにはいかぬのに…
関氏の血筋が…ここで絶えるか。