賈詡

字 文和 · 147年 ~ 223年 · 涼州武威郡姑臧県 · 張繍配下

賈詡の肖像

李傕・郭汜に長安を攻めさせ、曹操父子に仕えて太尉に至った策士

能力値

統率86武力48知力97政治85魅力57

カード

攻撃力 3体力 5コスト 4価値 14職分 軍師
屯田 コスト 1
次の3局面、指揮力+1
反間 コスト 2
敵1体がこの局面、敵軍を1回攻撃する
毒蛇 コスト 3
秘密 · 敵が計略を使うとき · その計略を無効にし、敵の次の局面の指揮力をそのコスト分奪う

正史

出典 · 『三国志』魏書賈詡伝と裴松之注の『献帝紀』 · 『魏略』 · 魏書董卓伝 · 武帝紀 · 文帝紀 · 張繍伝と裴松之注の『呉書』 · 典韋伝 · 袁紹伝 · 劉表伝 · 蜀書馬超伝 · 『後漢書』董卓伝 · 皇后紀

賈詡は字を文和といい、武威郡姑臧県の人です。若い頃は彼を認める者がなく、漢陽の閻忠だけが、彼には張良 · 陳平のような非凡さがあると言いました。孝廉に挙げられて郎となりましたが、病で官を辞して帰る途中、反乱した氐族に一行とともに捕らえられました。そこで西方に威名をとどろかせた太尉段熲の外孫だと偽って一人だけ解き放たれ、残りはみな殺されました。賈詡伝は、彼が時に応じた機略で事を成したのはすべてこの類であったと記します。

中平6年(189)董卓が洛陽に入ると、太尉掾であった賈詡は平津都尉となり、討虜校尉に移って、陝に駐屯していた董卓の娘婿の中郎将牛輔の軍中にいました。初平3年(192)董卓が死に、牛輔までも死ぬと、校尉の李傕 · 郭汜 · 張済らは軍勢を解散し、間道から郷里に帰ろうとしました。『後漢書』董卓伝は、彼らが赦免を求めたものの、王允が一年に二度は赦免できないとして拒んだと記します。このとき賈詡は「長安では涼州の者をみな殺そうと議しているという。軍勢を捨てて一人で行けば、亭長一人でも諸君を縛り上げられる。軍勢を率いて西へ向かい、長安を攻めて董公の仇を討ち、事が成れば国家を奉じて天下を征し、成らなければそのとき逃げても遅くはない」と言いました。亭長とは村里の治安を担う小役人です。李傕はその言に従って長安を攻め、裴松之は、大悪人が首を討たれて天地が開けようとしていた時に、再び乱を結ばせたのは賈詡の一言であるとして「賈詡の罪のなんと大きいことか」と記しました。

左馮翊となった賈詡は、李傕らが侯に封じようとすると「命拾いのための策にすぎぬ。何の功があろうか」と辞退し、尚書となって人材登用を担い、正したことが多くありました。興平2年(195)李傕と郭汜が長安で争ったときに宣義将軍となりましたが、裴松之注に引く『献帝紀』は、李傕が天子を自陣に置こうとすると賈詡が「天子を脅かすのは義ではない」と諫め、宮女を差し出せと押し寄せた羌 · 胡の頭目たちを献帝の頼みでなだめて帰したと記します。天子が長安を脱し、大臣たちが守られたのには賈詡の力があり、天子が去ると彼は印綬を返上して、同郡の人である華陰の将軍段煨のもとへ行きました。

段煨が表では礼を尽くしながら内心では彼を憚ったので、賈詡は南陽の張繍のもとへ移り、張繍は彼に子孫の礼をもって仕えました。賈詡は張繍に荊州の劉表と手を結ばせました。建安2年(197)宛で曹操に降った張繍が再び曹操を襲い、曹操は長男の曹昂と甥の曹安民、そして典韋を失いました。張繍伝の本文は、曹操が張済の妻を娶ったことで恨みを抱いた張繍が、自分の命を狙う曹操の企みが漏れると先んじて襲ったとだけ記します。裴松之注に引く『呉書』は、張繍が賈詡の策のとおり、軍を移すので曹操の陣営の真ん中を通らせてほしいと願い、さらに兵ごとに鎧を着けさせてほしいと請うて許しを得てから襲ったと伝えます。その後、張繍を攻めていた曹操が一朝にして軍を退くと、張繍は追おうとしました。賈詡は追えば必ず負けると止めましたが、張繍は聞かずに追って大敗し、今度は賈詡が急いで再び追えば必ず勝つと言い、果たして勝ちました。賈詡は、曹公は退くときには自ら殿を務めるが、力を尽くさずに退いたのは国内に事があるからで、一度勝った後は急いで帰るはずだと説き明かしました。

建安4年(199)官渡で曹操と対峙した袁紹が人を遣わして張繍を招くと、賈詡はその場で使者に「兄弟すら互いに受け入れられぬ者が、天下の国士を受け入れられようか」と言いました。袁紹は強く曹操は弱いうえに、曹操とは仇同士だとためらう張繍に、賈詡は三つの理由を挙げました。曹公は天子を奉じて天下に号令しており、勢力が弱いので我らを得れば必ず喜び、覇王の志ある者は私怨を解いて四海に徳を明らかにしようとする、というものでした。張繍が軍勢を率いて来ると、曹操は喜んで賈詡の手を取り「わたしを天下に信義ある者としたのは君だ」と言い、彼を執金吾として都亭侯に封じました。翌年、官渡で兵糧が尽きかけた曹操が策を問うと、賈詡は、袁紹に勝る曹公が半年たっても決着をつけられないのは万全ばかりを顧みているからであり、好機に決断すべきだと言いました。武帝紀は、烏巣を攻めよという許攸の言をみなが疑ったとき、荀攸と賈詡だけが勧めたと記します。

建安13年(208)荊州を得た曹操が長江に沿って東へ下ろうとすると、賈詡は民を安んじれば戦わずとも江東は頭を垂れるだろうと諫めましたが、曹操は従わず、戦いは不利に終わりました。建安16年(211)渭南で馬超らが土地を割けば和睦すると申し出ると、賈詡は偽って許すよう言い、さらに計を問われると「離間するのみです」と答えました。曹操はその策に従って韓遂と馬超を破りました。武帝紀は、曹操が韓遂と馬を並べて昔話だけを交わしたのち、あちこちを塗り消して書き改めた手紙を送り、馬超らにいっそう韓遂を疑わせたと記します。

曹丕と曹植にそれぞれ取り巻きがいて、嫡子を替えようという議論が起こると、賈詡は自らの立場を固める方法を尋ねた曹丕に、徳と度量を広め、子としての道に背かぬようにと言いました。曹操が左右を退けて後継を問うと、賈詡はしばらく黙っていたのち「袁本初と劉景升の父子のことを考えておりました」と答えました。袁紹と劉表はどちらも下の子を跡継ぎに立てようとした人物で、曹操は大笑いし、太子はついに定まりました。賈詡は自分が曹操の古くからの臣下ではないうえ、策謀が深いため疑われるのを恐れて、門を閉ざして私的な交わりを持たず、息子や娘の縁組も高門と結びませんでした。

建安25年(220)曹丕が魏王の位を継ぐと賈詡は太尉となり、裴松之注に引く『魏略』は、曹丕が曹操への賈詡の答えをありがたく思い、真っ先に彼を三公に登らせたと記します。皇帝となった曹丕が呉と蜀のどちらを先に討つべきか問うと、賈詡は文を先にし武を後にするよう言いましたが、曹丕は受け入れず、のちに江陵を攻めて多くの兵を失いました。黄初4年(223)七十七歳で世を去り、諡は粛侯です。長男の賈穆が後を継ぎ、賈穆が死ぬとその子の賈模が継ぎました。陳寿は「荀攸と賈詡は計略に漏れがほとんどなく、権道と変化に通じていた。張良 · 陳平に次ぐ者であろう」と評し、裴松之は、二人は照らす光は同じでも質の異なる夜光の珠と松明のようなものだとして、一つの伝にまとめたことを咎めました。

荀攸、賈詡,庶乎筭無遺策,經達權變,其良、平之亞與
荀攸と賈詡は計略に漏れがほとんどなく、権道と変化に通じていた。張良と陳平に次ぐ者であろう『三国志』魏書 荀彧荀攸賈詡伝 評
詡自以非太祖舊臣,而策謀深長,懼見猜疑,闔門自守,退無私交
賈詡は自分が曹操の古くからの臣下ではないうえ、策謀が深く遠大であるため疑われるのを恐れ、門を閉ざして自らを守り、退いては私的な交わりを持たなかった『三国志』魏書 賈詡伝

三国志演義

『三国演義』 第9~86回

演義で賈詡は第9回に初めて登場します。董卓が死に、赦免を求めて王允に拒まれた李傕 · 郭汜 · 張済 · 樊稠がそれぞれ生き延びる道を探そうと言うと、謀士の賈詡が「兵を捨てて一人で行けば、亭長一人でも諸君を縛り上げられる。陝の人々と本部の軍馬を集めて長安に攻め入り、董卓の仇を討とう。事が成れば朝廷を奉じて天下を正し、成らなければそのとき逃げても遅くはない」と言います。第10回では攻め寄せた馬騰 · 韓遂を堅く守って退けようと言い、韓遂を逃がした樊稠を宴の席で斬らせ、民をなだめ賢者と結ぶよう何度も勧めます。第13回で李傕と郭汜が争うときには天子の車駕を護送し、泣いて命乞いをする献帝に自ら計らうと答え、羌族には天子の密詔があると告げて帰らせます。第14回では曹操が来ると李傕に降伏を勧めて斬られかけ、その夜一人馬に乗って郷里へ帰ります。

第16回では張繍の謀士として再び登場し、曹操の大軍を前に張繍に降伏を勧め、自ら曹操の陣営に行って降伏を告げます。彼を謀士にしようとする曹操には、今の主を捨てることはできないと辞退します。曹操が張済の妻鄒氏を迎え入れると、怒った張繍に策を授け、陣を移したいと願い出させ、胡車児が典韋の双戟を盗んだ夜に曹操の陣営を襲わせます。第17~18回では、南陽城を攻める曹操が西北を攻めるふりをして東南から乗り越えてくることを見抜き、そこに兵を伏せて大勝し、退く曹操を追うなと言っておいて、負けた後には再び追えと言って勝たせます。第23回では曹操が遣わした劉曄と袁紹の使者が同時に来ると、袁紹の手紙を破って使者を叱りつけ、三つの理由を挙げて張繍を曹操のもとへ導いたのち、執金吾使となります。

その後、賈詡は曹操の側近の謀士として随所に登場します。第30回で烏巣を攻めるときには荀攸 · 曹洪とともに本営を守り、第59回では土地を割いて和睦しようという韓遂 · 馬超に偽って許し、離間の計を用いるよう言ったのち、要所を塗り消して書き改めた手紙を韓遂に送って馬超に疑わせる策を出します。第68回では曹丕に策を授けて、曹操が戦場へ発つときに泣いて拝礼させ、後継を問う曹操に「袁紹と劉表の父子のことを考えていた」と答えて曹丕を世子に立てさせます。第78回では三頭の馬が一つの飼い葉桶で食べる曹操の夢を吉兆と解いてみせます。第79回で曹丕が王位に就くと太尉となり、第80回では献帝に禅譲を急かし、曹丕に受禅台を築かせる策を出します。第85回では呉と蜀を急いで討たぬよう諫めましたが、聞き入れずに三路から呉を攻めて大敗した曹丕が「賈詡と劉曄の言を聞かなかったからこのように負けた」と悔やみます。第86回で太尉賈詡がすでに死んだとだけ伝えられ、演義で賈詡が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 189董卓が洛陽に入ると、太尉掾として平津都尉となり、討虜校尉に移りました。
  2. 192董卓が死ぬと、散ろうとしていた李傕 · 郭汜らに長安を攻めるよう勧めました。
  3. 192左馮翊となりましたが、侯に封じようとするのを辞退し、尚書となって人材登用を担いました。
  4. 195李傕と郭汜が長安で争ったとき宣義将軍となり、天子が去ると印綬を返上しました。
  5. 197張繍が賈詡の策のとおり軍を移すと称して曹操の陣営を襲ったと、裴松之注の『呉書』が伝えます。宛の夜
  6. 198退く曹操を追えば負けると止め、負けた後には再び追わせて勝たせました。
  7. 199袁紹の使者を追い返して張繍を曹操のもとへ導き、執金吾となって都亭侯に封じられました。殺してなお手を結ぶ
  8. 200官渡で曹操に決断を勧め、烏巣を攻めようという許攸の言に荀攸とともに賛成しました。
  9. 208長江に沿って東へ下ろうとする曹操に、まず荊州を安んじるよう諫めましたが、受け入れられませんでした。
  10. 211渭南で韓遂と馬超を離間させる策を出し、曹操が二人を破りました。
  11. 217後継を問う曹操に袁紹と劉表の父子のことを考えていたと答え、曹丕が太子となりました。
  12. 220曹丕が魏王の位を継ぐと太尉となり、魏寿郷侯に進みました。
  13. 223七十七歳で世を去り、諡は粛侯です。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

長子 賈穆 · 末子 賈訪 · 孫 賈模

縁

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

乱世を渡る術を知っておる。

口を開くとき

賈文和だ。わしは長生きするほうを選ぶ。

言い返すとき

言葉を惜しむのがわが処世よ。

言葉に詰まって

…勘定を一つ誤ったか。

言葉に詰まって

退く場所を見ておかねばな。

舌戦に勝って

勝つ手より生き残る手のほうが難しい。

舌戦に敗れて

…此度は身を低くしておこう。

勝ったあと

傷を負わずに勝つのが上策だ。

敗れたあと

…退き時を知るのも才のうちよ。

倒れるとき

…ついに身を全うしたか。

同じ旗の下

張繍