字 不詳 · 不詳 ~ 不詳 (208年以後) · 荊州南郡襄陽県 · 劉表配下
劉琮を荊州の後継に立てようと肩入れした劉表の義弟
出典 · 『後漢書』劉表伝 · 『三国志』魏書劉表伝と裴松之注の『戦略』 · 『典論』 · 『傅子』 · 魏書桓階伝 · 蜀書先主伝裴松之注の『世語』
蔡瑁は襄陽の人です。『後漢書』劉表伝と『三国志』劉表伝裴松之注の『戦略』がいずれも彼を「襄陽の人」と記し、『後漢書』は彼が劉表の後妻蔡氏の弟であることを明かしています。字や生年、没年は史書に残っておらず、彼のことは劉表伝とその注釈、『三国志』先主伝の裴松之注に数行ずつ出てくるだけです。
初平元年(190)、長沙太守孫堅が荊州刺史王叡を殺すと、朝廷は劉表を荊州刺史としました。しかし江南では一族同士で結束した賊、すなわち宗賊がはびこり、袁術が魯陽に兵を置いて道をふさいでいたので、劉表は単騎で宜城に入りました。そして南郡の人蒯越と襄陽の人蔡瑁を招いて、ともに策を練りました。『戦略』は、この場に中廬の人蒯良もいたと記しています。劉表は、治まった世には仁義を、乱れた世には権謀を先にするという蒯越の策に従い、宗賊の頭目たちを利で誘い出して斬り、その衆を収めましたが、その数を『戦略』は五十五、『後漢書』は十五と記しています。襄陽に拠った賊の張虎 · 陳生も蒯越と龐季の説得で降伏して江南は平定され、劉表は襄陽で兵を治めながら時勢をうかがいました。
『後漢書』は、劉表は初め自分に似た長男劉琦をたいそう可愛がっていたが、次男劉琮に後妻蔡氏の姪を娶らせてから、蔡氏が劉琮を愛して劉琦を憎み、そしる言葉が日ごとに劉表の耳に入るようになったと記しています。劉表は後妻を深く愛していたのでその言葉を信じ、妻の弟蔡瑁と甥の張允も寵愛を受けて劉琮と親しくしていました。蔡氏一族が劉表のそばで持っていた重みは、ほかの記録にも見えます。裴松之注の『傅子』は、朝廷から戻って曹操をほめたたえた韓嵩を劉表が斬ろうとすると、妻の蔡氏が「韓嵩は楚国の声望ある人で、その言葉はまっすぐですから、殺す名分がありません」と諫めたので、劉表は彼を殺さずに投獄したと記しています。
『三国志』劉表伝は、劉表と妻が劉琮を愛して跡を継がせようとすると蔡瑁と張允がそれに肩入れし、そのため劉琦が江夏太守として出され、皆が劉琮を跡継ぎに奉じたと記しています。『後漢書』によれば、劉琦は諸葛亮に身を守る策を尋ねた末、江夏太守黄祖が孫権に殺されるとその後任を願い出て出ていきました。劉表の病が重くなり劉琦が見舞いに戻ると、裴松之注の『典論』は、蔡瑁と張允が、孝心の厚い劉琦が父に会って父子の情がよみがえり、後事を託す思いが再び生じることを恐れたと記しています。二人は「将軍はあなたに江夏を任せて国の東の守りとされたのですから、その任はきわめて重いのです。いま兵を捨てて来られれば必ずお叱りを受けるでしょうし、親の心を傷つけて病を重くさせるのは孝ではありません」と言って彼を門の外で阻み、劉琦は涙を流して帰っていきました。
建安13年(208)、曹操が荊州を攻めに来る間に劉表は8月に背中の腫れ物で死に、劉琮が跡を継ぎました。蒯越 · 韓嵩 · 傅巽らが曹操に帰順するよう勧め、曹操の軍が襄陽に至ると劉琮は荊州を挙げて降伏しました。曹操は劉琮を青州刺史として列侯に封じ、蒯越ら十五人を侯に封じました。しかし『三国志』にも『後漢書』にも、その後蔡瑁がどんな官職に就いたか、いつどのように死んだかは記されていません。
裴松之注の『世語』は、劉備が樊城にいたとき劉表が彼を宴に招いたが、蒯越と蔡瑁がその席で劉備を捕らえようとしたので、劉備はそれに気づいて厠に行くふりをしてひそかに抜け出し、的盧という馬に乗って逃げたと記しています。馬が襄陽城の西の檀渓の流れに落ちたが、一気に三丈跳び上がって渡ったという話です。しかし孫盛は、流浪の身の劉備がそのような変事に遭いながら、劉表が死ぬまで何事もなく過ごせただろうかとして、「すべて世俗の妄説であって事実ではない」と言いました。陳寿は袁紹と劉表を並べて、「嫡子を捨てて庶子を立て、礼を捨てて愛を重んじたため、跡を継いだ者が倒れた」と評しました。
又妻弟蔡瑁及外甥張允並得幸於表,又睦於琮瑁、允恐琦見表,父子相感,更有託後之意『三国演義』 第6~7回 · 第31回 · 第34~35回 · 第40~41回 · 第45~46回
演義で蔡瑁は第6回に初めて登場します。演義は、劉表が延平の人蒯良 · 蒯越と襄陽の人蔡瑁を補佐としていたと紹介し、玉璽を隠して帰る孫堅を阻めという袁紹の書状を受けた劉表は、蒯越と蔡瑁に兵1万を与えて道をふさがせます。蔡瑁は刀を振るって打って出ましたが、黄蓋の鞭に護心鏡を打たれて逃げ出します。第7回で孫堅が襄陽を攻めると、城を固く守って袁紹に救援を求めようという蒯良の言葉を「拙い策」として退け、峴山に陣を敷いたものの程普に敗れて城へ追い込まれます。蒯良は軍法どおり斬るべきだと言いましたが、劉表はその妹を新たに妻に迎えたばかりだとして罰しません。
第31回では、身を寄せに来る劉備を受け入れるなと讒言して劉表に叱られます。第34回では、姉の蔡夫人としめし合わせて劉備を害そうとします。宿舎を襲おうとして伊籍の耳打ちで取り逃がすと、壁に謀反の詩を書きつけて劉備を陥れようとし、さらに襄陽に官員たちを集めて宴を開き、その席で殺そうとします。伊籍の耳打ちを受けた劉備は単身西門から抜け出し、的盧に乗って檀渓を跳び越え、追ってきた蔡瑁は川のほとりで彼を取り逃がします。第35回でこのことを知った劉表は蔡瑁を斬ろうとしますが、蔡夫人が泣いて命乞いをし、孫乾が蔡瑁を殺せば劉備がここに安心して留まれなくなると諫めたので、叱りつけただけで許します。
第40回、劉表の病が重くなると、蔡瑁は張允とともに外門を守って見舞いに来た劉琦を阻み、劉表が死ぬと蔡夫人 · 張允と偽の遺言をこしらえて十四歳の劉琮を立てます。これを責めた幕官の李珪を斬り、蔡氏一族に荊州の兵を分けて任せます。第41回では、避難してきた劉備に張允とともに城楼から矢を射かけさせて、魏延に「国を売った賊」と罵られ、曹操を討とうと言う王威を斬ろうとして蒯越に止められます。張允と樊城へ行って曹操に降伏し、荊州の兵は合わせて二十八万だと申し上げると、曹操は彼を鎮南侯 · 水軍大都督に、張允を助順侯 · 水軍副都督に任じます。荀攸がへつらう輩になぜ水軍を任せるのかと問うと、曹操は北方の兵が水戦に不慣れなので一時用いるだけだと答えます。
第45回、三江口で弟の蔡壎が甘寧の矢に倒れて初戦に敗れると、蔡瑁は青州 · 徐州の兵を中に置き荊州の兵を外に置く水寨を築こうと申し上げ、張允とともに水門二十四を備えた水寨を建てます。これをひそかにうかがった周瑜は「水軍の妙を深く得ている」と驚き、二人から除くことにします。昔の同窓だと訪ねてきた蒋幹が、周瑜の帳中から「蔡瑁張允謹封」と書かれた偽の手紙を盗んでくると、曹操は二人を呼んで進軍せよと命じ、蔡瑁が兵はまだ慣れていないと答えると、怒って二人を斬らせます。首が届けられてから曹操は計略にかかったと悟りますが、諸将には軍法を怠ったので斬ったと言いつくろい、毛玠と于禁を新たな水軍都督とします。第46回では、蔡瑁の一族の弟蔡中 · 蔡和が兄の仇を討つと称して、呉へ偽りの降伏に向かいます。演義で蔡瑁の話はここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
姉 蔡氏(劉表の後妻) · 義兄 劉表
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
襄陽の蔡瑁である。
襄陽の蔡瑁だ。荊州のことは荊州の者が決める。
その言葉は門の外で聞こう。中へは入れぬ。
…宜城でともに練った算段が、こうも崩れるか。
姉の家を守ろうとしただけのことだ。
乱世には権謀が先と申したではないか。
荊州を差し出した手だ。言葉も置くとしよう。
水の道を知る者が勝つのだ。
兵がまだ慣れておらぬと、あれほど申し上げたものを。
手紙一通で首が落ちるとはな。