字 稚然 · 不詳 ~ 198年 · 涼州北地郡 · 董卓配下
董卓の死後、皇帝を人質に取り長安を地獄に変えた恐るべき西涼の群雄
出典 · 『三国志』魏書董卓伝と裴松之注の『英雄記』 · 『献帝紀』 · 『典略』 · 『献帝起居注』 · 『後漢書』董卓伝と李賢注の『献帝紀』 · 献帝紀 · 王允伝
裴松之注と李賢注に引く『英雄記』によれば、李傕は北地の人であり、李賢注に引く劉艾の『献帝紀』は彼の字を稚然とします。自身の伝はなく、『三国志』と『後漢書』の董卓伝の末尾に郭汜とともに彼の事績が付されています。董卓の娘婿牛輔が陝に兵を置いていたとき、李傕はその配下の校尉として郭汜・張済とともに陳留と潁川の諸県を略奪し、『後漢書』は彼らが男女を殺したりさらったりして、通り過ぎた所には何も残らなかったと記します。
初平3年(192)に董卓が死に、牛輔までもが部下に殺されると、李傕らは長安に赦免を求めましたが、王允は一年に二度赦免することはできないとして聞き入れませんでした。長安では涼州の人を皆殺しにしようとしているという噂まで流れたので、彼らは兵を解散して郷里へ帰ろうとしましたが、賈詡が「兵を捨てて一人で行けば、亭長一人でもあなた方を縛り上げられる。西へ向かって長安を攻め、董公の仇を討とう」と言うと、その言葉に従いました。長安に着いたとき軍勢は十余万となっており、『後漢書』は包囲して八日目に、『三国志』は十日目に城が陥ちたと記します。呂布は敗れて逃げ、略奪で死んだ者は一万余人にのぼりました。
李傕は王允を殺してその屍を市にさらし、『後漢書』王允伝はその息子たちと一族十余人も殺されたと記します。李傕は車騎将軍・池陽侯となって司隷校尉を兼ね、郭汜・樊稠とともに朝廷を牛耳りました。興平元年(194)に馬騰が李傕を攻めると、兄の子李利を郭汜・樊稠とともに遣わし、長平観の下で馬騰と韓遂を破りました。このころ穀物一斛が五十万銭に達して人が互いに食らい合い、『献帝紀』によれば、李傕は献帝が公卿や飢えた民に下賜しようとした絹を、自分の倉が足りないと言ってすべて自分の陣営に運び去りました。
興平2年(195)春、李傕は樊稠が韓遂と馬を並べて長く語り合っていたという李利の言葉から彼を疑い、会合の席で刺し殺し、その後は郭汜とも互いに疑い合って長安で戦いました。郭汜が天子を自分の陣営に迎えようとすると、李傕は甥の李暹に宮殿を包囲させて天子と皇后を自分の陣営に移し、「古来、帝王が臣下の家にいたことはない」という太尉楊彪の言葉も聞かずに、宮殿や官庁、民家を焼き払いました。郭汜の矢が天子の前まで飛んできて李傕の耳を貫くと、李傕は同じ日に天子を北の砦に移して内外を遮断しました。和解を勧めに来た謁者僕射皇甫酈に対して、彼は「郭多は馬泥棒の蛮族にすぎない」と言って聞き入れず、「郭汜は公卿を人質に取り、将軍は君主を脅かしている。どちらが重いか」という言葉に怒って、彼を追わせて殺させました。李傕は自ら大司馬となり、『献帝起居注』は彼が鬼神や左道の術を好み、巫女に神を降ろさせては巫女たちに手厚く褒美を与えたと記します。二人が互いに攻め合うこと数か月、死者は万を数えました。
部将の楊奉が背くと、李傕の勢力は次第に衰えました。その年の6月に張済が陝から来て二人を和解させると、李傕は天子が東へ向かうことを許しましたが、すぐに後悔して郭汜・張済とともに追撃し、11月に弘農の東澗で董承・楊奉の軍を大破して百官を殺しました。傷を負って落馬したまま自分を罵った射声校尉沮儁も殺しました。天子が黄河を渡って安邑へ行ったのち、太僕韓融が来て和睦を結ぶと、拘留していた公卿や百官、宮人を帰しました。
天子が許に遷都したのち、『後漢書』によれば建安3年(198)4月、謁者僕射裴茂が詔を奉じて段煨ら関中の将たちを率いて李傕を討ち、その三族が滅ぼされました。『三国志』はこの事件を建安2年(197)に置き、『典略』は彼の首が届くと詔によって高く掲げられたと記します。陳寿が別に残した評はありません。『後漢書』を著した范曄は董卓のあとについて「残った賊がその隙に乗じると、山は覆り海は傾き、崑岡の火がここから燃え広がった」と論じ、李賢はその残った賊を李傕・郭汜らと注しました。
及殘寇乘之,倒山傾海,昆岡之火,自茲而焚今汜質公卿,而將軍脅主,誰輕重乎『三国演義』 第3回 · 第5~6回 · 第9~11回 · 第13~14回 · 第17回
演義で李傕は第3回に初めて名が出ます。何進の召しを受けた董卓が洛陽へ向かう際、郭汜・張済・樊稠とともに率いていた将です。第5回では董卓の命で郭汜と兵五百を率いて太傅袁隗の屋敷を囲み、老人も子供も区別なく皆殺しにし、郭汜と五万を率いて汜水関を守ります。第6回では董卓の使者として孫堅のもとを訪れて縁組を申し入れますが、叱りつけられて頭を抱え鼠のように逃げ帰り、洛陽の民を長安へ追い立て、滎陽で董卓を追ってきた曹操を郭汜と両側から攻めます。
第9回で董卓は郿塢を発つにあたり、李傕・郭汜・張済・樊稠の四人に飛熊軍三千で郿塢を守らせます。董卓が死ぬと四人は涼州へ逃げたものの赦免を拒まれ、謀士賈詡の言葉に従って兵を集め長安へ攻め上ります。李傕は山を背にして呂布を誘い出し、郭汜にその背後を突かせる策で呂布を疲れさせ、その間に張済と樊稠が長安を攻めます。城が陥ちると、宣平門の楼から飛び降りた王允を郭汜とともにその場で殺し、その一族まで害します。第10回では天子までも殺そうとしますが張済・樊稠に止められて思いとどまり、車騎将軍・池陽侯となり、攻めてきた馬騰・韓遂を賈詡の言葉どおり堅く守って退けます。樊稠が韓遂を逃がしたという甥の李別の言葉を聞くと、賈詡の策どおり宴を開いて樊稠をその場で斬ります。第11回では郭汜とともに呂布の妻子をかくまった龐舒を殺し、張楊に呂布を殺せという書を送ります。
第13回の冒頭で、李傕は自ら大司馬を称してはばかることなく振る舞います。楊彪が郭汜の妻をそそのかした反間の計で郭汜と仲違いすると、甥の李暹に天子と皇后を自分の陣営へ連れ去らせ、陣前で郭汜と一騎打ちで十合を戦います。巫女に神を降ろさせることを好み、和解を勧めに来た皇甫酈には剣を抜きますが、楊奉と賈詡に止められて思いとどまります。賈詡の策で天子が彼を大司馬に封じると、巫女の祈禱のおかげだと言って巫女だけに褒美を与えて楊奉の恨みを買い、張済が来て和解を取り持つと天子を東へ送ります。のちに郭汜と再び手を組んで天子を追い、東澗で大勝し、民を前に立てた「敢死軍」で白波の軍を破ります。第14回では洛陽へ向かう途中で夏侯惇に敗れ、曹操に降るよう勧める賈詡を斬ろうとして彼を去らせ、曹操と戦って甥の李暹・李別を許褚に討たれ、郭汜とともに山へ入って賊となります。第17回で段煨が李傕を殺して首を献じ、その一族二百余人が許都の城門ごとに首を斬られます。演義で李傕が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
兄の子 李暹 · 李利、従弟 李応、甥 胡封
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
天子はわが手中にある!
天子もわが陣中におわしたのだぞ。
怖いなら今のうちに頭を下げて去れ。
…まず郭汜の野郎を疑うべきか。
長安が恋しいな。
力こそが朝廷だ。
賈詡の言を聞くべきであったか…。
長安の主はわしだ!
…長安を焼いた報いか。
長安を焼いた報いを受ける。