字 興覇 · 不詳 ~ 不詳 (215年以後) · 益州巴郡臨江県 · 黄祖配下
百余人を率いて夜に曹操の陣を襲った孫権の猛将
出典 · 『三国志』呉書甘寧伝と裴松之注の『呉書』 · 『江表伝』 · 蜀書劉焉伝の裴松之注の『英雄記』 · 呉書呉主伝 · 周瑜伝 · 呂蒙伝 · 凌統伝
甘寧は字を興覇といい、巴郡臨江の人です。裴松之注に引く『呉書』は、彼はもともと南陽の人で、祖先が巴郡に移り住み、郡の計掾(会計帳簿を上呈する役人)に推挙されて蜀郡の丞となったが、ほどなく官を捨てて家に帰ったと記します。若いころから力が強く遊侠を好み、軽薄な若者たちを集めてその頭目となりました。徒党を組んで弓や弩を携え、羽飾りを背負い鈴を帯びて歩いたので、民は鈴の音を聞いただけで甘寧だとわかりました。土地の役人が手厚くもてなせば交わって楽しみましたが、そうでなければ手下を放って財物を奪い、こうしたことが二十年あまり続きました。『呉書』は、彼が滞在するときはいつも錦で船をつなぎ、去るときにはそれを切り捨てて豪奢を見せつけたと付け加えています。
劉焉伝の裴松之注に引く『英雄記』は、劉焉の死後、劉璋の将沈弥 · 婁発 · 甘寧が反乱を起こしたものの勝てず、荊州へ逃れたと記します。甘寧は略奪をやめ、諸子百家の書をかなり読んだのち劉表のもとへ行って南陽にとどまりましたが用いられず、さらに黄祖に身を寄せましたが、黄祖も彼を凡人として扱うばかりでした。『呉書』によれば、彼は食客八百人を率いて劉表のもとへ行ったものの、劉表がついに何事も成し遂げられないと見て呉へ行こうとしましたが、夏口の黄祖に道を阻まれてそこにとどまり、黄祖は三年のあいだ彼を礼遇しませんでした。孫権が黄祖を攻め、黄祖の軍が敗走したとき、甘寧は弓の腕で殿を務めて校尉凌操を射殺しましたが、黄祖はなおも彼を以前と同じように扱いました。都督蘇飛がたびたび推挙しても用いず、かえって彼の食客を誘い出したので、蘇飛は酒席を設けて「日月は流れ去り、人生はいくばくもない」と言い、彼を邾県の長として送り出してやり、甘寧はそのまま数百人を集めて去りました。
呉に来ると周瑜と呂蒙がそろって彼を推挙し、孫権は彼を特別に扱って古参の臣と同じように遇しました。甘寧は、曹操はいずれ簒奪するであろうし、荊州は国の西の要であり、劉表は考えが浅く子らも凡庸なので、曹操より先に手を打つべきだとし、老いて頭がぼけ、船や戦具を手入れしない黄祖をまず討ち、太鼓を鳴らして西へ進んで楚関を押さえれば、しだいに巴蜀を図ることができると申し上げました。同席していた張昭が呉が乱れるとして反対すると、甘寧は彼が蕭何の任を負いながら乱れることばかり心配していると言い返し、孫権は杯を挙げて黄祖討伐を彼に任せました。建安13年(208)、孫権が西へ進んで黄祖を捕らえ、その兵をすべて収めると、甘寧は兵を授かって当口に駐屯しました。甘寧伝は黄祖を生け捕りにしたと記し、呉主伝は逃げる黄祖の首を騎兵の馮則が斬ったと記します。『呉書』によれば、孫権は黄祖と蘇飛の首を入れる箱を二つ用意していましたが、甘寧が酒席で頭を地に打ちつけて血の涙を流し、蘇飛がいなければ自分はとうに谷底に骨を埋めていただろうと命乞いをし、蘇飛が逃げたら「私の首を代わりに箱に入れましょう」と言ったので、孫権は蘇飛を許しました。
その年、周瑜に従って烏林で曹操を破りました。南郡の曹仁を攻めても落とせないと、先に夷陵を押さえる策を出してすぐにその城を得ましたが、率いる兵は新たに得た者を含めてもわずか千人でした。曹仁が五、六千人で包囲し、高い櫓から雨のように矢を射かけて兵たちがみな恐れても、甘寧は平然と談笑し、周瑜が呂蒙の策に従って来援し包囲を解きました。のちに魯粛に従って益陽で関羽を防いだとき、関羽が精兵五千を選んで夜に浅瀬を渡ろうとすると、兵が三百しかいなかった甘寧は「あと五百人だけくだされば、関羽は私の咳払いを聞いただけで川を渡れないでしょう」と言いました。魯粛が千人を加えてやり、甘寧が夜に進むと、関羽は渡らずに柴で陣営を築き、その地は関羽瀬と呼ばれました。孫権は彼を西陵太守とし、陽新 · 下雉の二県を領させました。建安19年(214)に皖城を攻めたときは城攻めの部隊の督となり、手に綱を握って自ら城壁をよじ登って先頭に立ち、朱光を捕らえ、功が呂蒙に次ぐとして折衝将軍となりました。
その後、曹操が濡須に出てくると、甘寧は前部の督となり、敵の前陣を攻めよとの命を受けました。孫権から賜った酒と肴を配下の百余人にふるまい、銀の椀に酒を注いでまず自分で二杯飲んでから都督に注いでやりましたが、都督が伏したまま受けないので、刀を抜いて膝に置き、「甘寧でさえ死を惜しまないのに、お前はなぜひとり死を惜しむのか」と叱りつけました。二更に枚を銜んで出撃して敵を攻めると敵は驚いて退き、甘寧は兵二千を加増されました。『江表伝』によれば、彼は精兵百余人で曹操の陣営に入り、鹿角を抜き砦を越えて数十人の首を斬り、北軍が松明を星のように掲げたころにはすでに戻って万歳を叫んでいました。孫権は喜んで「孟徳には張遼がおり、私には興覇がいる。互いに張り合うに足りる」と言いました。
甘寧は粗暴で殺すことを好みましたが、さっぱりとして計略があり、財物を軽んじて士を敬い、精鋭の兵を手厚く養ったので、兵たちも喜んで命を捧げました。建安20年(215)、合肥から撤退する際に逍遥津の北で張遼の襲撃を受けると、弓を射ながら凌統らと決死で戦い、なぜ楽を奏さないのかと声高に叱咤したので、孫権はとりわけ称えました。『呉書』によれば、凌統は甘寧が父を殺したことを恨み、呂蒙の家で酒が回ると剣舞を舞い、甘寧が双戟で舞おうと立ち上がると、呂蒙が刀と盾を手に二人を引き離しました。孫権は凌統の思いを知り、甘寧を半州に移して駐屯させました。
あるとき、過ちを犯して呂蒙のもとへ逃げ込んだ厨房の少年を殺さないと約束して返してもらいながら、船に戻ると桑の木に縛りつけて自ら射殺しました。怒った呂蒙は兵を集めて彼を攻めようとしましたが、呂蒙の母が裸足で出てきて止め、呂蒙が笑って呼ぶと、甘寧はむせび泣いて「あなたに背いてしまった」と言い、ともに戻って一日じゅう楽しみました。呂蒙伝は、甘寧がしばしば呂蒙の意に逆らい孫権の命にも背いたが、呂蒙が「甘寧のような闘将は得がたい」とかばったので、孫権はついに彼を用い続けたと記します。甘寧が死ぬと孫権はひどく惜しみ、子の甘瓌は罪を犯して会稽へ移され、ほどなく死にました。本伝は彼の没年を記していません。陳寿はこの巻の将たちについて、「みな江東の虎臣であり、孫氏が厚く遇した者たちである」と評しました。
寧雖麤猛好殺,然開爽有計略,輕財敬士,能厚養健兒,健兒亦樂爲用命孟德有張遼,孤有興霸,足相敵也『三国演義』 第38~39回 · 第44~47回 · 第49~51回 · 第53回 · 第56回 · 第66~68回 · 第82~83回
演義で甘寧は第38回に初めて登場します。建安8年に孫権が黄祖を攻めたとき、黄祖の部将として先頭に立った凌操を矢一本で射殺し、のちに呂蒙の紹介で孫権のもとへ来ます。呂蒙は、彼が巴郡臨江の人で書物や歴史にかなり通じ、力が強く、腰に銅の鈴を帯びて歩いたので人々はその音を聞いただけで避け、西川の錦を帆にしたので錦帆賊と呼ばれたと紹介します。黄祖は彼を川を荒らす賊だとして用いず、蘇飛が鄂県の長として送り出してくれたので去ることができたといいます。甘寧はまず黄祖を討ち、西へ巴蜀を図るべしという策を献じ、董襲とともに副将となり、小舟百余艘で蒙衝をつないだ大綱を断ち切り、蒙衝に躍り上がって鄧龍を斬ります。
第39回では東門の外に潜んで待ち、逃げる黄祖を追い、程普が功を争うのを恐れて背後から矢を射て落とし、首を斬ります。孫権が蘇飛を斬ろうとすると、頭を地に打ちつけて泣きながらその命乞いをして救いますが、宴席で父の仇を討とうとする凌統が剣を抜いて襲いかかると椅子を持ち上げて防ぎ、孫権は彼を夏口へ送って凌統を避けさせます。
赤壁では、第45回の三江口の初戦で先頭に立って蔡壎を射殺し、第46~47回では偽って降った蔡中 · 蔡和を預かって見張り、闞沢とともに呉に背くふりをして曹操を欺きます。決戦の夜である第49~50回には、蔡中を先に立てて曹操の陣営深くに入り込んで彼を斬って火を放ち、逃げる曹操の行く手で馬延と張顗を斬ります。第51回では夷陵を奪ったものの曹操の兵に包囲され、周瑜の率いる援軍と内外から攻めて囲みを解きます。第66回の単刀会では呂蒙とともに兵を伏せて関羽を狙いますが、関羽が魯粛の手を握っていたので手を出せません。
第67回の皖城では、鉄の鎖を握って矢石を冒して登り、その鎖で朱光を打ち倒し、功をねぎらう宴で凌統が剣舞を舞いながら近づくと二本の戟を手に立ち向かい、呂蒙が二人を引き離します。第68回の濡須では、凌統が三千人を求めると百騎で十分だと張り合い、孫権から賜った酒と羊肉を百人と分け合って食べ、銀の椀でまず二杯飲んでから、兜に白い鵞鳥の羽を挿して夜に曹操の陣営をかき乱し、一人一騎も失わずに戻ります。孫権は「孟徳に張遼がいるなら、私には甘興覇がいる」と喜びます。翌日、凌統が楽進と戦っていて曹休の矢で馬が倒れると、甘寧が楽進の顔を射当てて彼を救い、凌統は頭を下げて感謝し、彼と生死をともにする友となります。
最後は第82~83回です。劉備が攻め込むと、張昭の進言で救援部隊を任され、赤痢を病む身で出陣し、船で病に伏していたところ蜀軍が来ると聞いて馬に乗り、蛮王沙摩柯の軍と出くわします。立ち向かえずに逃げる途中、沙摩柯の矢を頭に受け、富池口に至って大樹の下に座って死ぬと、木の上の烏数百羽がその遺体を取り囲み、孫権は礼を尽くして葬り、祠を建てます。演義で甘寧が登場するのはここまでです。
歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。
子 甘瓌
この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。
錦帆賊のお出ましだ!
甘興覇だ。鈴の音を聞いたなら覚悟せよ。
長引かせることはない。一気にゆこう。
…勢いが削がれるか。
こうしてはおれぬ。
百騎で曹操の陣営を揺るがした男だ。
…もう一度行くべきだった。
百騎で足りた!
…帆を畳まねばな。
百騎で陣営を揺るがした。