王允

字 子師 · 137年 ~ 192年 · 并州太原郡祁県 · 何進配下

王允の肖像

董卓を誅し漢室を救おうとした節義堅き忠臣

能力値

統率26武力6知力67政治80魅力77

カード

攻撃力 1体力 2コスト 1価値 5職分 能吏
徴発 コスト 1
陣営のコスト3以下の味方1体をランダムにコストなしで召喚する

正史

出典 · 『後漢書』王允伝 · 董卓伝 · 蔡邕伝 · 何進伝 · 献帝紀 · 『三国志』魏書 董卓伝 · 呂布伝と裴松之注の張璠『漢紀』 · 謝承『後漢書』 · 『九州春秋』

王允は字を子師といい、太原郡祁県の人です。家は代々州郡で仕官していました。同郡の郭泰は彼を見て「王生は一日に千里を行く、王佐の才である」と言い、友として交わりました。十九歳で郡吏となったとき、晋陽出身の小黄門趙津が一県の大きな災いとなるほど貪欲で横暴だったので、王允は捕らえて殺しました。趙津の兄弟が宦官に取り入って讒言し、桓帝が大いに怒ると、太守の劉瓆が召し出されて獄死し、王允はその柩を平原まで送り届け、三年の喪を終えてからようやく家に帰りました。再び仕官してからは、素行の悪い路仏を太守の王球が吏に用いようとしたので、顔色を変えて争い死にかけましたが、刺史の鄧盛が彼を別駕従事に召して救い、このことで名が知られるようになりました。若い頃から大節を好み、功を立てる志を抱き、経書を誦しながら朝夕馬を駆って弓を習いました。

三公がそろって招聘して侍御史となり、中平元年(184)に黄巾が起こると特に選ばれて豫州刺史となりました。荀爽 · 孔融らを従事として招き、党人の禁錮を解くよう上奏し、黄巾の別働隊を大いに破って、左中郎将皇甫嵩 · 右中郎将朱儁とともに数十万の降伏を受けました。このとき黄巾の中から中常侍張譲の客がやりとりした手紙を見つけ出し、黄巾と内通していたことを上奏しましたが、霊帝は張譲を叱責しただけで罪を問えず、恨みを抱いた張譲は別の事件で彼を陥れました。翌年投獄され、恩赦で釈放されて刺史に戻りましたが、十日でまた捕らえられました。司徒楊賜が人を遣わしてよく考えるようにと自害を促す意を伝え、従事たちが泣きながら毒薬を差し出しましたが、王允は「臣下が君主に罪を得たならば、死刑を受けて天下に謝すべきであり、どうして薬を飲んで死を求めようか」と言って杯を投げ捨て、檻車に乗りました。大将軍何進 · 太尉袁隗 · 司徒楊賜がともに上書したので死は免れましたが、その年の冬の大赦でも一人だけ外され、翌年になってようやく釈放されると、名を変えて河内と陳留の間を流浪しました。

中平6年(189)に霊帝が崩じると都へ駆けつけ、宦官を除こうとしていた何進が彼を招いて従事中郎とし、のちに河南尹に移しました。献帝が即位すると太僕となり、さらに守尚書令となり、初平元年(190)に楊彪に代わって司徒となりました。董卓が関中へ遷都するとき、王允は蘭台と石室の図書のうち重要なものをすべて収めて随行し、『後漢書』は経籍が完全に残ったのは王允の力が大きかったと記します。董卓が洛陽にとどまっている間、朝廷の大小の事はすべて王允に任されました。王允は本心を隠し身を屈して常に董卓の意を奉じ、董卓も心を許して疑いませんでした。

董卓の害毒が深まり簒奪の兆しが見えると、王允は司隷校尉黄琬 · 尚書鄭泰らと彼を除こうと謀りました。楊瓚と士孫瑞に袁術を討つという名目で兵を出させ、道を分けて董卓を攻めようとしましたが、董卓が疑って彼らを引き留めました。初平2年(191)、長安に戻った董卓が関中に入った功で彼を温侯に封じると、固く辞退しましたが、士孫瑞の言を聞いて二千戸だけを受けました。初平3年(192)春に雨が六十余日続くと、士孫瑞 · 楊瓚と晴れを祈る壇に登って先の謀を改めて結び、同じ并州の人として厚遇してきた呂布をひそかに引き込んで内応させました。『三国志』呂布伝によれば、呂布が「父子の間柄なのにどうしたものか」と言うと、王允は「君の姓は呂であり、もとより骨肉ではない」と答えました。4月、天子の病が癒えて未央殿で盛大に集まった日、祝賀のために入ってきた董卓を李粛と呂布が北掖門で殺しました。

その後王允は録尚書事となって朝政を総覧しました。はじめは董卓の部曲を赦免しようと議しましたが、「彼らは主人に従っただけなのに、悪逆の名を付けて特別に赦せば、かえって自ら疑わせることになる」としてためらい、董卓の財物を公卿と将校に分け与えようという呂布の願いも聞き入れませんでした。呂布を剣客としてしか遇さなかったので、二人の間も隔たりました。『後漢書』は、王允は剛直で悪を憎む性格であったため、はじめは董卓を恐れて節を屈したが、董卓が死ぬともう憂いはないと考え、温和な顔色もなく正しさだけを守って臨機応変に従わなかったので、下の者があまり従わなかったと記します。董卓の死を嘆いた蔡邕を廷尉に引き渡し、太尉馬日磾が止めましたが、「武帝が司馬遷を殺さなかったので、誹謗の書が後世に伝わった」と言って聞き入れず、蔡邕は獄死しました。王允は悔いてやめさせようとしましたが、間に合いませんでした。

董卓の将はほとんどが涼州の人でしたが、王允がその兵を解散させようとすると、涼州の人を皆殺しにするという流言が広まりました。李傕らが赦免を願いましたが、王允は一年に二度赦すことはできないとして許さず、賈詡の言を聞いた李傕 · 郭汜らは兵を返して長安を包囲しました。城が陥ちると、呂布が青瑣門の外に馬を止めて「公も去ることができるか」と呼びかけましたが、王允は「幼い天子が私だけを頼りにしているのに、難に遭ってかりそめに逃れることは忍びない。関東の諸公に、国のことを思うよう伝えてほしい」と言って残りました。天子を奉じて宣平城門の楼に登っていた王允は、「太師に何の罪があるのか」という李傕らの問いに追い詰められて下り、数日後に殺されました。享年五十六で、子の王蓋 · 王景 · 王定と一族十余人がともに死に、甥の王晨 · 王凌だけが郷里へ逃れました。誰も遺体を収められずにいましたが、もとの吏の趙戩が官を捨てて葬儀を行いました。

のちに許へ遷都すると、献帝は王允の忠節を思って改めて葬らせ、もとの官の印綬を贈り、孫の王黒を安楽亭侯に封じました。范曄は「王允は董卓に仕えてその権勢を引き寄せ、隙をうかがってその罪を討った。このとき天子は束縛から解かれた」と述べ、その根本は忠義の誠であると評し、裴松之は「王允の忠情は、内に省みて恥じるところがないと言ってよい」と述べました。

若王允之推董卓而引其權,伺其閒而敝其罪,當此之時,天子懸解矣
王允は董卓に仕えてその権勢を引き寄せ、隙をうかがってその罪を討った。このとき天子は束縛から解かれた『後漢書』王允伝 論
朝廷幼少,恃我而已,臨難苟免,吾不忍也
幼い天子が私だけを頼りにしているのに、難に遭ってかりそめに逃れることは忍びない『後漢書』王允伝に載る王允の言葉

三国志演義

『三国演義』 第3~4回 · 第8~9回

演義で王允は、第3回に司徒として初めて登場します。十常侍の乱の後、北邙山から戻る少帝と陳留王を百官とともに迎え、董卓を急ぎ除くべきだという鮑信の言には「もう少し議論しよう」と先延ばしにします。

第4回で、袁紹の密書を受けながらも策のなかった王允は、自分の誕生日だと口実を設けて旧臣たちを屋敷に招いて宴を開き、酒が回ると、漢が董卓の手で滅びようとしていると言って顔を覆って泣きます。皆がつられて泣く中、手を打って笑った曹操が董卓を刺すと名乗り出ると、王允は手ずから酒を注いで七星宝刀を手渡します。

第8回で董卓が宴席で司空張温の首を盆に載せて運び込ませると、屋敷に帰った王允は眠れずに裏庭へ出て、実の娘のように育てた歌妓の貂蝉に出会います。王允は貂蝉をまず呂布に与え、のちに董卓に献じて二人を背かせる連環の計を巡らし、金冠を贈って呂布を招いて婚姻を約束した後、董卓を招いて貂蝉を献じます。

第9回で鳳儀亭の一件を打ち明ける呂布に「将軍は呂氏、太師は董氏、戟を投げつけたときに何の父子の情があったか」とけしかけ、呂布は腕を刺して血で誓います。士孫瑞 · 黄琬と相談して李粛を郿塢へ遣わし、天子が位を譲るという詔で董卓を呼び寄せ、北掖門で剣を手に「反賊がここに来たぞ、武士はどこにいる」と叫びます。董卓の遺体の上で泣いた蔡邕を、馬日磾が止めても聞き入れず獄中で縊り殺させ、赦免を願う李傕 · 郭汜 · 張済 · 樊稠の四人だけは赦さないと言います。長安が陥ちると、ともに去ろうという呂布の再三の勧めを退け、天子のそばにいましたが、宣平門の楼から自ら飛び降りて「王允はここにいるぞ」と叫び、李傕 · 郭汜を罵って死にます。一族もすべて殺されます。演義で王允が登場するのはここまでです。

正史と演義の相違点

生涯

  1. 155十九歳の郡吏として、貪欲で横暴な小黄門趙津を捕らえて殺しました。
  2. 184豫州刺史として黄巾を破り、張譲の客が黄巾とやりとりした手紙を見つけ出して上奏しました。
  3. 185張譲の讒言で投獄されましたが、毒を飲んで死ねという勧めを退けました。
  4. 189宦官を除こうとした何進の従事中郎を経て、河南尹となりました。
  5. 190司徒となり、長安へ遷都するとき蘭台と石室の図書を収めて持っていきました。
  6. 191董卓が温侯に封じると固く辞退し、二千戸だけを受けました。
  7. 192呂布に内応させ、北掖門で董卓を殺しました。長安の門
  8. 192董卓の死を嘆いた蔡邕を廷尉に引き渡し、獄死させました。
  9. 192一年に二度赦すことはできないとして、李傕らの赦免の願いを退けました。
  10. 192長安が陥ちた後、去ろうという呂布の勧めを退け、数日後に李傕に殺されました。
  11. 196許へ遷都した後、献帝が彼を改めて葬らせ、孫を亭侯に封じました。

年表の中のこの人物

歴史年表でこの人物が登場する出来事です。札はその出来事が正史と演義にどう記されたかを示します。

家族

子 王蓋 · 王景 · 王定 · 甥 王晨 · 王凌 · 孫 王黒

縁

宿敵 戦場で出会うと互いの攻撃が上がる

邂逅 出会うと互いに防壁が上がる

遺した言葉

この武将がゲームの中で実際に口にする言葉です。

戦場に立つとき

朝廷の法度はここにある。

口を開くとき

逆賊を斬る刃は宴の席にも潜んでおる。

言い返すとき

老臣の忠心を試されるな。

言葉に詰まって

…貂蝉よ、すまぬ。

言葉に詰まって

漢室のためならば。

舌戦に勝って

董卓もこうして討ったのだ。

舌戦に敗れて

李傕・郭汜を侮ったのが無念だ。

勝ったあと

漢室のための勝利だ!

敗れたあと

…漢室の行く末は暗いな。

倒れるとき

漢室のためにしたことだ。

同じ旗の下

盧植劉虞何進張温